2006/3/24

『日本人の思惟方法』  お勧めの1冊

中村元著。 様々な版があるようだが、その1つは春秋社より3 巻『〈第3巻〉/東洋人の思惟方法〈3〉日本人の思惟方法』が出ている。1989年。 紹介記事によれば、『日本人とは何か。古典作品や仏典などあまたの文献の分析をもとに、風俗・習慣をもふまえて、日本人に特有の思惟方法を考察。新編集による決定版選集』とある。

『○○人の思惟方法』と一連の著書の1つで、○○の部分にインド、チベット、中国、日本が入る。 もともと<同じ>シャカの思想である仏教が、それぞれの文化にどの様に受容されていったかを調べることで、その基層文化構造を探るというもの。私自身はまだインド人編と日本人編しか読んでいない。

この仕事に注目したのは、その解析の「発想」にスゴイ!と思ったことが主な理由。このことの意味することは 『同じ思想的源泉から出ても各々の基層文化によってその進化が異なり、一見似て非なるものが生まれることは十分にある』
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2006/3/23

『Zen Mind and Beginner's Mind』  お勧めの1冊

Shunryu Suzuki著、Shambhala Pubns 、1972年。紹介記事には『A respected Zen master in Japan and founder of the San Francisco Zen Center, Shunryu Suzuki has blazed a path in American Buddhism like few others. He is the master who climbs down from the pages of the koan books and answers your questions face to face. If not face to face, you can at least find the answers as recorded in Zen Mind, Beginner's Mind, a transcription of juicy excerpts from his lectures. From diverse topics such as transience of the world, sudden enlightenment, and the nuts and bolts of meditation, Suzuki always returns to the idea of beginner's mind, a recognition that our original nature is our true nature. With beginner's mind, we dedicate ourselves to sincere practice, without the thought of gaining anything special. Day to day life becomes our Zen training, and we discover that "to study Buddhism is to study ourselves." And to know our true selves is to be enlightened. --Brian Bruya』とある。

禅について読んだ数少ない本の1つであるが意外なことに最も理解し易かった。しかも英語であるというのが逆説的。しかしこれは案外理にかなっているかもしれない。何故ならば、この本は、バックグラウンドが全くないアメリカ人に、如何に「禅」をいうものの真髄を理解して貰うかに腐心した本で、60年代にカルフォルニアに禅寺を建てた故・鈴木老師の手によるもの。 また各章が数ページで読み切りなのがよい。 道元の「正法眼蔵」は私にとって古典過ぎて理解するのは大変であるが、その点では外国人とそう違わない。

この本の中でヨセミテの滝を流れ落ちる1滴の水滴を、人生に例えた1章があるが、これは私の生死観にも少なからず影響を与えた。
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2006/3/23

『完全言語の探求』  お勧めの1冊

ウンベルト・エーコ著、平凡社、1995年。著書紹介記事には『ヨーロッパとは何か、ヨーロッパはどこから来て、どこへ行くのか…。歴史と文化の深層を理解するための、最高の執筆陣による画期的書き下ろしシリーズ。』とあるがかなり難解。

余りにも難解な本は本末転倒という感じがしないでもない。 もっと判り易く書けなかったのか、との苛立ちさえ憶える。以下のリンクはそのこととも関連している。↓
http://diary.jp.aol.com/applet/salsa2001/20060317/archive
ここではアリエスの「死と歴史」という本を読みながら、「判り易い本」とはどういうものか考えてみた。反面教師にはなるだろう、

それは兎も角、この本の中で以下のような下りがある。

『…エピクロスが示唆したように、このような経験への反応が種族や風土や場所に応じて変わるものだとすれば、異なった種族が異なった時に異なったしかたで異なった言語の家族を生んだと考えても、向こう見ずなことではなくなるだろう。 ここから、さまざまな言語にはそれぞれに固有の精神があるとする理論が生まれて18世紀に発展をとげることになるのである』 p138 
『…17世紀になると、こうしたタイプの言語ナショナリズムの選りすぐりの見本があまた登場してくるのだ』p148

ここでエーコが解説しようとしたことは、ヘブライ語の聖なる「祖語」としての権威の失墜であり、近代における言語の「単一起源説」に対する「多起源説」の興隆だろう。しかしここで特に私が注目したのは、近代における自国語に対する民族主義的反応と、 こうした流れの1つとして、しばしば人文科学系とりわけ歴史学の分野での『自国語で(論文を)記述することに意味がある』という一種の文化革命である。しかもそれは現在に至っている。 

歴史のある人文科学系は、近代から引きずってきた『言語ナショナリズム』の伝統に結構従順だったのではないか、それに比べ新参者の自然科学、とりわけまだ半世紀の歴史もない分子生物学は一種の祖先還りのラテン的指向で『国際的でなければ科学ではない』『日本語で論文書いても業績にはならない』みたいな風潮がある。

著者は完全言語を巡っての、歴史的な様々なエピソードを辿った後「国際的補助言語」の章で著者は、英語がそうであるように、マス・メディアによって普遍的媒介言語が出現する可能性を述べる。 また同時に言語の断片化も『押しとどめることのできない過程』として描いている。p472

エーコの解説は、私には右に左に揺れているように感じられる。それは、もしかすると彼自身の葛藤なのかもしれない。 しかし最後には、『アダムへの贈り物としての祖語が、あらゆる言語の複合体であった』p496 というアラブのイブン・ハズムの言葉を接いで救いを見い出しているように私には思える。
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2006/3/22

『中世の日常生活』  お勧めの1冊

ハンス・ヴェルナー・ゲッツ著;中央公論社 1989年 紹介記事によれば『中世の秋』に比べて著しく史料の少ない中世初期、人びとはどのような日常生活を営んでいたのか。その生活様式を、家族、修道院、農村、宮廷生活、都市と市民等を通して考察する。7〜13世紀の典型的生活像。』とある。

この本の序論で著者は、これから論じようとする対象についての範囲をやや詳しく規定しています。これはさりげない中にも従来までのドイツ史学界の批判となっているとか(訳者あとがきより) 

この本によれば人々の移動と旅行の時代の幕開けは11〜12世紀で、この時代『改修された道路は、あらゆる階層の巡礼者、浮浪者、学生で一杯であった』p24 
  
また言葉の端々にフランス、アナール派を意識していると思えるところもあり、これらの雰囲気は何となく『ロマネスク世界論』を思い出させますが、後者よりは具体的で判り易い。
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2006/3/22

「中世の旅」  お勧めの1冊

ノールベルト・オーラー著、法政大学出版局、1989年。内容的には「中世の道」に近い本で、メッセージ性より資料性が高いが挿絵が多いので飽きずに読める。

高校の時不思議に思っていたことがある。 それはカール大帝の帝国が3分割相続された時、長男のロタールが中央の細長い部分、如何にも統治しにくそうな部分を相続したことだがこの本で納得がいった。 この本に依れば、ライン河とローヌ河はわずか30キロの陸路で結ぶことが出来る。 つまりこれで北海>ライン河>アーレ川>ローヌ河>地中海航路が成る。p49 つまりロタールは交通の要所を押えたわけである。こんなことは高校の歴史では一度も話題にされなかった。残念なことである。

訳者の藤代幸一氏は「アリストテレスの笑い」の著者。また「中世都市と暴力」↓
http://diary.jp.aol.com/applet/salsa2001/20060321/archive
についでこの本にもアジールについての簡単な記載を発見した。 異郷の地を旅する人が土地の民衆と共に、たとえ内容は理解出来なかったとしても、聞きなれたラテン語のミサを聞くことで共同体としての同胞意識を育て、またそれが概念のみならず、実効的な教会のアジール権の確立を助けたのではないかと思った。 
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2006/3/22

『ロマネスク芸術の時代』  お勧めの1冊

ジョルジュ・デュビー著。白水社、新装復刊版、2000年。著書の紹介記事には『西欧文化の黎明ロマネスク。神の栄光のために夢想した芸術家たちの作品を人々の生活のなかに位置づけた、中世史の第一人者による名著』とある。

<ミレニアムについて>
この本の中で1033年、多くの人々がエルサレムに、サンチアゴ・デ・コンポステーラに巡礼の旅に殺到したとのこと。これは「千年王国」との関連でよくこれまで耳にした。しかし、これから逆算する西暦33年とはキリストの刑死の時。となると、次のミレニアムは2000年でなくて2033年? 結構計算はばらばらである。

(注)その後この件について最近の多くの本で、当時の庶民は循環的暦の中に生きており、ローマ暦はおろかほとんど西暦という意識は無かったということが指摘されている。 また聖職者ですら統一的な暦は持っていなかったとか。このデュービーの本はその意味で古典と云える。

<修道会の分布について>
『この(クリュニー)修道会はフランス王国と西ローマ帝国とを隔てる国境の両側に・・拡がった・・・君主の後見から最も完全なかたちで逃れていた地域であり、封建制による分割・・がすすんでいた(地域である)』p135〜 とある。当時これらの地域は封建領主による私物化が進み俗化が進行した地域であり、クリュニー修道会の改革の対象地域であったこと(腐敗していたという意味で)。 また地方であることは同時にラテン文化が宮廷によって蘇生されなかった、つまり様々なロマネスク様式美を産みだす素地があったということ。

それで、これに触発され早速さまざまな修道会の分布を調べてみた。響庭孝男著の『ヨーロッパ古寺巡礼』の表紙裏の地図をみれば、確かにブルゴーニュ、プロバンス、それにピレネー山脈沿いに並んでいる。(ただロワーヌ川沿いは例外か?)

一方でシトー会は(杉崎秦一郎著の『12世紀の修道院と社会』の巻末資料)全ヨーロッパ(全フランス)的に分布していること。 つまり分布の仕方が前者と若干違う。 これは何を意味するのか? それと何故か、両修道会ともロワール河とガロン河に挟まれた地域は分布が薄い(河沿いにはあります) 共に今後の課題。
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2006/3/21

「中世都市と暴力」  お勧めの1冊

ニコル・ゴンティエ著、白水社 1999年出版 著書紹介には『喧嘩、殺人、決闘、復讐、強姦、反乱、カーニヴァル……13〜16世紀のヨーロッパ各都市を席巻した様々な暴力現象と治安維持の様相を、豊富な史料を元に活写するユニークな社会史』とある。 

かなり面白い、いや面白いというよりも、あの『オイレンシュピーゲル』や『薔薇の名前』で描かれる背景が何となく判ってくる気になる。オイレンシュピーゲルが親方をコケにするのが、何故同時代人にもてはやされたのか? この場合の背景というのは階級闘争や異端運動について。

『・・・職人たちの兄弟団は騒動の温床となった。 こうした職人層に、異端セクトの平等主義的な教義が広まると、宗教的熱狂に支えられて政治的な暴力も増大した・・・』p45

その他、日々の暴力の場としての「居酒屋、淫売屋、風呂屋」についての記載がある。

『14世紀のアヴィニオンでは66軒、・・・すなわち住民100人につき1軒という具合である。 それにしても1416年のドールでは、住民56人につき1軒という驚くべき数字がみられ・・・居酒屋は人々を高揚させ、空威張りや度を超した行動を招いた』p104 〜105

もしこの数字が事実だとしたら非常に多くの居酒屋が都市にはあったということになる。しかし当時住み込みの職人は基本的には夜、親方の家から外に出れなかったはずだから居酒屋に行けた人は普通の町の住民ということか? このような環境の中で「オイレンシュピーゲルの話し」が人々にもてはやされたとしたら、それが幅広い支持層に支えられ中世末期に農民戦争をはじめとする階級闘争への雰囲気が、このような居酒屋を場として産み出したとしても不思議ではない。

なお、この中でアジールについての記載がただ1行だけだがある。p170これまで、阿部氏の本の中では再三出てくるテーマ。

最後にこの本を読んでいて感じたことの1つに、「中世の漂泊の旅人たち」に対する2つの見方を感じた。  すなわち、阿部謹也氏の「テイル・オイレンシュピィーゲル」に代表されるような、差別される「中世の漂泊の旅人」側からの視点と、今回のように逆に都市の側から、放浪の旅人に対する恐怖や猜疑心を伴った視点。この本は中世における「都市」という特殊な場を通じて、中世の暴力を概論するという、とてもユニークな本と云えそうだ。 
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2006/3/20


2006/3/20
「狼男伝説」『原始仏典;Udana VI4』『ヨーロッパ心の旅:弁証法の伝統』
2006/3/19
『世界の歴史10;西ヨーロッパ世界の形成』『「産業」の根源と未来―中世ヨーロッパからの発信』
2006/3/18
「農民のヨーロッパ」「修道院と農民」その2
2006/3/17
「死と歴史;副題―西欧中世から現代へ」『中世の迷信』
2006/3/16
『西洋中世の罪と罰;副題―亡霊の社会史』『動物裁判』『西欧精神の探求:革新の12世紀』
2006/3/15
『中世の夢』『明恵、夢を生きる』『西欧精神の探求:革新の12世紀』『死者と生きる中世』
2006/3/14
『同時代人の見た中世ヨーロッパ』『ハイチ;目覚めたカリブの黒人共和国』
2006/3/13
『ハイチ革命とフランス革命』『文明が衰亡するとき』
2006/3/12
『New York、周縁が織りなす都市文化』『中世とは何か』『村上龍対談集;存在の耐えがたきサルサ 』 
2006/3/11
米国統計局HP、『La Vida (ラ・ビーダ)』
2006/3/10
『砂糖大国キューバの形成』『キューバ経済史』『フランスロマネスクを巡る旅』
2006/3/9
『カリブ・闇と光の宴』『埋められた鏡』『収奪された大地』
2006/3/8
『越境するクレオール『陶酔する文化』『経済幻想』『カリブ海の音楽』
2006/3/7
<歴史学者が何故「移民」についての本を書いたのか>『分断されるアメリカ』
2006/3/6
『中世農村と1970年の農村』『世界像革命』<青は藍よりいでて藍より青し>『ヨーロッパ中世の権力編成と展開』『比較史の道』
2006/3/5
『トゥルバドゥール』『カリブの風』『ラテンアメリカ世界を生きる』『レゲエ入門』
2006/3/4
『移民の運命』『モンタイユー』『カリブ、響きあう多様性』『中世人と権力』『帝国以後』『原理主義とは何か』
2006/3/3
『修道院と農民』『韓半島からきた倭国』『影の外に出る』
2006/3/2
『ブラック・デイアスポラ』『中世の生活文化誌』
2006/3/1
『ニグロ、ダンス、抵抗』
2006/2/28
『中世ヨーロッパ文化史』『ヨーロッパの知的覚醒』
2006/2/27
「脳の中の幽霊」
2006/2/26
『背教者ユリアヌス』
2006/2/25
『稲作文化の世界観』『記紀神話伝承の研究』『移民の運命』『新ヨーロッパ大全』『1册でわかる歴史』<エドワード・サイード>
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2006/3/20

『原始仏典;Udana VI4』  お勧めの1冊

『ヨーロッパ心の旅:弁証法の伝統 副題―異文化への道しるべ』トマス インモース著、原書房1995年。著書紹介には『二千年以上にわたり“統一”と“独立”の両ベクトルの間を揺れつづけてきたヨーロッパ。その文明の底に流れるものは。よき聞き手を得て、ひそかに受け継がれてきた秘教の伝統や寓意画の謎解きなどを披露しながら、いっそう深い日欧の相互理解の道を探る』とある。

アリストテレス以来、欧米人の思考方法の基礎となる三段論法では「原理」と「事実」の両方をもって論理を組み立てる。 しかし「唯識」の世界では「事実」がなく全部「観念」だから、三段論法は無理とか。p163-4 だとすると唯識観をもつ人間には科学は無理ということか? しかし、「仮の原理」と「仮の事実」をもちいて、三段論法で得られた「仮の結論」が「とりあえずの結論」である、とする立場もあってもいいような気がする。むしろ『便法』とはそういうものではないか?
 
それで思い出すのが、原始仏典であるUdana VI4 から採られた『盲人象を撫でる』の逸話。ご承知のようにこの例えは、昔インドの王が、多くの盲人達を集め、彼等に象を触らせ、象がどのようなものであるかを語らせたところ、それぞれの盲人が象の足や鼻、牙を撫でて象が 『このようなものだ、あんなものではない等々』 と大議論した話。 

普通に言われていることと違い、原始仏典 Udana で取り上げられる意図は以下の通りである。

『真理そのものは、我々の認識を越えたもので、我々はその全貌を把握することは出来ない。しかし世の真理の探究者たちが、例え部分的にもせよ真理を見ているという点では、その限りにおいて真理性がある』 

ここから仏教独自の<実践的認識>あるいは<合理的思惟>を私達に諭してくれます。我々もそれでいいではないかと思う。 神ならぬ身、いやこの場合は、仏ならぬ身でしょうか? 『全体像を把握する』ことなぞ高望みせず、個々の事象を詳細に観察することで見えてくるものがきっとあるはず。自然科学系だって『全体像を把握する』人なぞはなかなかいません。 しかし目の前の事象を1つ1つ解析・解決していけば全体としては確実に進歩する。
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2006/3/20

「狼男伝説」  お勧めの1冊

池上俊一著、朝日選書1992年。 著書紹介によれば『狼男は実在した。〈自然〉と〈社会〉が交感した時代に中世人が夢の中に見た〈現実〉。驚異現象が解き明かす心性の歴史』とある。 まず最初に読んで感じたことは、対象は阿部謹也氏と重なる部分が多いように思われるが、両者の視点は違っているようだ。

2章の「聖体の奇蹟」で1215年のラテラノ公会議を象徴的な契機として、可視的な「聖体」の儀式そして「告解」を通じて司祭中心的なカソリック教会の権力機構が次第に完備されるようになっていたことを述べている。p130-132 「告解」の持つ意味についても阿部氏がその著書のなかで何度も取り上げている。西洋中世の罪と罰;副題―亡霊の社会史』他。
http://diary.jp.aol.com/applet/salsa2001/20060316/archive
ところで告解;confessionは、映画「ジャンヌ・ダルク」で何回も出てきた単語だった。

5章「彼岸への旅」で池上氏は特別章を割いてイメージとしての「橋」に言及されている。12〜13世紀にヨーロッパ中に橋が激増したという史実からも、また次元の異なる空間を連結するものとしての「橋」の象徴性も認められているのですが、「彼岸への旅」ということにテーマを絞ったこともあるのでしょうが、阿部謹也氏が指摘するところのアジールとしての橋の存在は特にないようだ。p285 ただ1行だけ悪魔的な力を象徴するものとしての「川」への言及がありますが、そこでもアジールへの言及はありません。 p295 

最後の章の「煉獄論批判」というのが一番面白かった。これはル・ゴフの本しか読んでいないとそれを真に受けてしまいますから。 油っ気たっぷりの中華の後にはやはりウーロン茶が一番よいみたいな感じではある。 でも勿論、池上氏はル・ゴフ派でしょう。
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