2006/3/3

『修道院と農民』  お勧めの1冊

副題;「修道院と農民―会計文書から見た中世形成期ロワール地方」佐藤彰一 (著) 名古屋大学出版会、1997年出版。75年に発見されたサン・マルタン修道院「会計文書」の体系的分析により、この文書がカバーするロワール地方を観察の場とし、史料が語る農村社会の構造と変動の様を介して、古代から中世への移行の様相を具体的に解明した力作。 

この中の「聖餅の神秘論」という同じ史料から出発して、私が計算をしたところでは1モディウスは約18Kg。ところが、歴史家H・ビィットヘフトの計算では104.56Kg。史料というのは9世紀半ばに書かれた文書で以下ちょっと、長くなりますが全て引用します。

『現在の3ヌミは大粒小麦153粒の重量に等しい。この3ヌミは1スタテールに等しく、練り粉状の大聖餅1つの重さである。火を通すことにより、それは全重量の6分の1を失う。小聖餅は1ヌムスを越えない重さである。重量について語ろう。大聖餅より大きくもなく、また小さくもないこの3ヌミ{の聖餅}はもし古よりの習慣にしたがって作られたならば、大粒の小麦153粒と過不足なく等しい重さを示す。そして300ヌミは昔の25ソリドウス・ポンドの重さがある。 その12ポンドはそれゆえ3600ヌミであるが、このは小麦1セクスタリウスに等しく、これから、それを以て1人の人間が1週間生きることが出来る、もしくは7人の人間が1日を生きることが出来る7個のパンが得られる。さらに公正かつ正規の1モディウスは均等なる17セクスタリウスからなり、これを以て神の加護により、食卓に集う119人にパンを購うことができる。』 p370

私は最後の行の「1モディウスは・・・119人にパンを購う」から出発して、1斤半の食パンを作るのに450gの小麦粉が必要であるとし、また1斤半の食パンで2人の1日分の食料と考え、以下のように計算した。1モディウス=119 x 450g / 2 = 26.8kg これは9世紀半ばの史料で、シャルル・マーニュが旧3モディウスを2モディウスに変更したので、これを7世紀の旧モディウスに変換すると新1モディウス= 26.8kg=旧1.5モディウス、すなわち、旧1モディウス=17.9kg。

同じ史料から出発してこれだけの違いが出たのは(勿論、私が何か間違いをしたのでしょうが)H・ビィットヘフトが最初の行の「3ヌミは大粒小麦153粒の重量に等しい」という事を元に計算したからだと思われる。しかし「1モディウスは成人の男子1人が運べる容量」だとするならば104.56Kgは、無理ではないか? 私の推理した17.9kgの方が少なくともの史料とは整合性があるように思う。

私の計算の問題点は、現代の方法で作った食パン1斤半が2人分の食料となるという仮定で、これが1人分しかならないとなると、それだけで1モディウスは36kgになってしまう。ただし、それにしても、とても104.56Kgにはならない。何故なら1人で4斤以上食べることになるわけで、現代の飽食の時代でもこれは多すぎ。また当時の収穫量が1粒の種籾あたり3粒程度の時代に、パンばかり食べていたとは到底思えない。それから「1モディウスは・・・119人にパンを購う」という記述を算定に使った点についてはかなり妥当だと思われる。 それは、9世紀のコルビー修道院長アダルハルドウスはスペルト小麦に関して、24新モディウスの麦から製粉後に10新モディウスの小麦粉がもたらされるとしている p384 この記述から著者は9世紀には12新モディウスの小麦の収穫があれば1人の生存を1年間支えることができる計算になるとしている。p384 一方、私の根拠とした記述から計算すると、365 / 119 x 1 = 3.06 約3新モディウスの小麦粉で1人の生存を1年間支えることができ、これを小麦に換算すると 3 x 24 /10 = 7.2新モディウスの小麦となる。これは、著者が別の計算によって得た新12モディウスと大差ない。

一方、歴史家の計算の問題点は小麦の容量(モディウスは葡萄酒にも使う)からパンの原料となる小麦粉の重さを推定する際の誤差。すなわち、容量から重量への変換、さらには脱穀にともなう重量損失を正確に算定するのは難しいと思う。

不思議なことに、著者が特に言及していないことを1つ。世帯の10分の1税の平均額は2.2モディウス、 即ち総生産量は22モディウス。p518 これから各世帯が1年間に消費可能な平均穀物量を計算すると。22 - 2.2(税)-7.3(種籾)=12.5モディウス。これは著者の計算による、1人の生存を1年間支えることができる18モディウス(=12新モディウス、私の計算では10.8モディウス)にさえ及ばない。確かに本文中でも「慢性的な飢餓状態」との記載があったが、むしろこのことは、穀物以外のカロリー源が重要であったということではないでしょうか? この時代の農業はかなり初歩的な段階で、かなりのカロリーを動物性食物から穫っていたと考える方が私には納得しやすい。「西欧精神の探求:革新の12世紀」堀米庸三編p41にも豚肉の消費量は12世紀当時でさえ1日平均で1キロとなっている。 これには異論も多いだろうが已然として初歩的農業の時代に穀物以外のカロリー源が重要であったということはあり得るだろう。
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2006/3/3

『韓半島からきた倭国』  お勧めの1冊

「副題;古代加耶国が建てた九州王朝」李 鐘恒 (著) 好太王碑文に刻まれた倭、新羅をおびやかした倭、宋書に登場する倭の五王など、中国・朝鮮史書に載る倭人とは誰なのかを探る。韓半島の古代史研究から大和朝廷中心の日本古代史の書換えを迫る書。

著者は古田武彦氏の「九州王朝説」(大和朝廷の本家に相当する九州王朝が筑紫に拠点を持ち、朝鮮半島にも倭地があったがやがて滅亡したとする説)に近いが、著者はむしろ半島の加耶国を本拠地とし九州は分家とする見方である。

面白いが、同時に著者のナショナリズムに説が引っ張られている感じがある。読者が自国民である韓国人だけだと思って筆が滑ったのだろうか問題な記載も多い。一々取り上げないが、倭国の凶暴さに対して新羅の正当性を強調するところなど著者がアカデミック(大学教授)なキャリアの人間であるだけに本書の評価にも影響を及ぼしかねず残念。 それに各所で首を傾げざるを得ない部分も多い。例えば著者は至る所で『…は火を見るよりも明らかである』と云ったような記載が目立つが、とてもそうは思えない。色々な可能性があるはず。議論としては粗雑。

とは云え、成る程と納得させられた点も多々ある。例えば、中国の史書が記録した日本の事情と同時代の『記紀』の記事が全く合わないのを日本の歴史家が十分に検討していないという指摘が事実であれば。それは確かに問題だろう。p254,302 その他、井上氏が『任那日本府と倭』1972年、寧楽社出版で指摘した通り、4世紀末に大和朝廷が大軍を率いてと高句麗と対決したという好太王碑に書かれた史実通りならば、当時の(準)構造船の能力から6万の将兵を率いて朝鮮海峡を渡海させることは常識的には納得し難い。 

例えば最近の発掘調査によれば、全長6メートルの準構造船は丸太をくりぬいた船の両サイドに波よけの板を付けただけの簡単な構造で、だいたい650年頃まで続いたと考えられている。この舟の場合両舷6名づつ12名の人が漕ぐ構造(順風が吹く場合は簡単な帆を揚げて走る)。従ってこれで太平洋の荒波を乗り切るということ自体難しかったのではなかろうか? 船の幅は丸太の太さによって決まるが、発展形では丸太1/4分を使って、船底を厚板でつなぐ場合もあるとか、これだともう少し船幅が稼げるにしてもたかが知れている。(因に遣唐使の時代になるとジャンク船が導入される。これは船底いっぱいに幅の広い厚い板を横に使ったもの)他方、井上氏やこの李氏が指摘するように、この倭軍が南朝鮮に住む倭人およびその同盟軍が主体の軍隊だったとすれば納得いく。p285 

その他、『三国史記』新羅本紀の第9代伐休尼師今10年6月(193年)の条に『倭人大いに餓え、来たりて食を求める者、千余人』という記載があるらしいが、p31 もしこの記載が事実ならば飢饉により倭国から難民が大勢新羅に押し寄せたことになる。彼らが上記のような構造船に乗り玄界灘を渡って来たと考えるのは同様にかなり無理がある。…果たして準構造船100隻を連ねて難民(十分に準備された軍隊ではない)が押し寄せることが出来るだろうか? 

常識的に考えるとそれら難民は著者の云うように半島在住の倭人としたほうが素直だろう。 いずれにせよ、

<当時日本あるいは韓国という概念は無かったわけで>

朝鮮半島に住んでいようが、北九州に住んでいようが同族と云うことは十分に可能性がある。これらの記述等を根拠に著者は 『倭国とよばれた国家は実は朝鮮海峡を挟んで半島南部と北九州沿岸に勢力をもった集団』 とし、此処での記載の対象は「半島に住む」倭人が陸路やってきたと解釈している。 

最後に感想として、如何に国史とはいえ研究者が国語でしか、論文を出してないのはやはり駄目だろう。外国の、例えば韓国や中国の研究者の目に触れられるようにしなければピア・レビューは望むべくもない。 今では状況も変ってきたと思うがどうなのだろう?
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2006/3/3

『影の外に出る』   お勧めの1冊

日本、アメリカ、戦後の分岐点。片岡 義男 (著) NHK出版、2004初版。

著者は云う、『思考を停止した人…の価値観は…これを守ろうとして活用され…現在という現実に対して、これほど無力なものはない』p7 思考は停止すればドグマとなり弊害しか生まず、日々思考することにより<変化>することこそ意味があるというのだろう。

またこうも述べる、『アメリカ以外の選択肢を持たないという事態のなかに、いまの日本はいる…外交と軍事をほとんどやらないで来た…』p208-9 

…ではどのような選択肢が日本にあったのか?と云えば答えは簡単ではないが、これも真に同感。

「あとがき」で著者はこの本が「提言」でも「警世の書」でもなく自分一人で考えた経過を言葉によって固定したものと定義している。p236 「教養としての世界地図」の章を書く著者には、かつての『スローなブギにしてくれ』の作者のイメージはない。彼の考えに同意する、しないに関わらず我々も自分で考えた経過を言葉の形で固定化する作業は重要であるような気がする。
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