2006/3/19

何故、人文科学文献を載せるのか?  人文科学系参考文献リスト

何故、自然科学が専門の私が人文科学系の書籍の紹介記事をblogに載せるのかについて説明したい。 

       <ヒトとチンパンジーの違いは遺伝情報だけで説明出来るか?>
昔から私は、文明を持ったヒトと他の生物の違いをゲノム情報の違いだけでとても説明出来るとは思えなかった。 『ヒトとは何か?』 という問いかけは自然・人文科学に関わらず根源的な問いかけだと思うが、しかし上記のような疑問に正面から問いかけたものは殆どない。 

           <ゲノム・プロジェクトから判ったこと>
一方、ヒト・ゲノム・プロジェクトは色々なことを我々に教えてくれた。その中で一番重要であると私が思ったことは、当然のことではあるが 『ヒトの遺伝情報量が極めて限られている』 ということである。ハプロイドにしてその量は3 x 10^9bpしか過ぎない。これは最近のノートパソコンに十分納められる情報量である。 さらに現在マウスやジョウジョウバエといったゲノムプロジェクトが進行している。 勿論これらはそれぞれの実験動物としての必要性から進められている経緯もあるが、とりわけチンパンジーのゲノム・プロジェクトなどでは上記の 『ヒトとチンパンジーの違いは何か?』 という問いかけが暗黙の了解としてある。その結果は既に多くの人が承知しているように<ヒトとチンパンジーの遺伝子には殆ど差はない>。

       <遺伝子の本質は何か? --- 遺伝情報と文字情報の類似>
そこである時、遺伝子の本質は何かと考えてみることにした。そうすると、
1)複製出来るとこ
2)改変(進化)出来ること
3)世代(時間)を越えて伝達出来ること
が先ず頭に浮かんだ。その時あることに気がついた。それと全く同様の機能を持つものをヒトだけが持っていることに。即ちそれは『文字情報』である。しかもそれはヒトの遺伝情報量をはるかに越えるものである。 

        <歴史からの示唆 --- 識字率の上昇が文明飛躍の鍵>
以前から趣味的に歴史に興味を持っていたが、その中である示唆も与えられた。それはある文明が周辺の世界を抜けて大きく飛躍する時、識字率の急上昇が起こっているという事実である。 例えばアッバース朝の頃にイスラーム文化が花咲いたが、これはアラビア語で書かれたクルアーン(コーラン)を全てのムスリムが読めなければならなかったことと無縁ではないだろう。 またその後、はるかに遅れていた西欧が世界史上に躍り出るのも、それぞれの民族が国語という形で識字率が上昇したことと無縁ではない。 

よく暗黒の西欧中世から近代への道を切り開いた発明に(←「発明」何と誤った言葉の使い方だ!)に紙と活版印刷術の中国からの導入が挙げられるが、これは「原因」ではなく「結果」である。識字率の上昇こそ必要の母だろう。

       <文字情報を持つことがヒトが文明を築けた理由か?>
以上のような結論に辿り着いた時、「遺伝情報」と「文字情報」は機能的ホモログであり、ヒトはその両方を持つ、地球上唯一の生物であるということ。 しかも「文字情報」は「遺伝情報」に比べ膨大な量に及ぶという事実。 そしてそれがヒトだけが文明を築く事が出来た理由ではないかと考えている。 

            <個人のサイトという気楽さ>
そこでこのblogは個人サイトという気楽さもあり、門外漢ではあるが「遺伝情報」の伝達に関わる事柄だけでなく、「文字情報」も紹介してもいいのではないかと考えた次第である。
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2006/3/19

『世界の歴史10;西ヨーロッパ世界の形成』  お勧めの1冊

中央公論社版。予想(!)に反してユニークな内容。1章からまでを佐藤彰一氏、7章から12章までを池上俊一氏が分担されている。 それぞれに文章の端々に『修道院と農民』や「ロマネスク世界論」を垣間みることが出来る。 特に最後の12章池上氏の筆による「増殖する虚構の言葉と権威の言葉」の幕切れは印象的。

『…崇高な愚かさとでもいおうか、自分の言葉の精密な雪だるまに驚きあきれて、ますます思考は麻痺してしまう』p369 …と辛辣に批判しつつも、 

『…風土から離陸し。「モノ」から離れた「言葉」が、中世を終わらせ、近代をもたらしたのである』p375  と最後を結んである。

全集ものにありがちな網羅的羅列形式ではなく味のある1冊。
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2006/3/19

『「産業」の根源と未来―中世ヨーロッパからの発信』  お勧めの1冊

レジーヌ・ペルヌー (著), ジャン・ギャンペル (著), レイモン・ドラトゥーシュ (著), 農山漁村文化協会、1996年、はじめて聞く出版社からのもの。著書紹介には『資源、労働、機械、市場、組織、それらが新たな機能をもって産業と経済を組み立て始めた時代、中世。3人の中世史家が、異なる角度から中世における発展の諸要因を探る。現代にも通じる社会の発展経過で生じる問題に迫る』とある。

共著者として名を連ねているジャン・ギャンベルは『カテドラルを建てた人々』の著者。この中でレジーヌ・ペルヌーがアリエスをやや批判的にとりあげている。

『成文法と慣習法を隔てている溝に十分な配慮がされなかった場合には、往々そこから無理解が生じることとなる。1例を挙げれば、もう30年も前のことであるが、子供や家族の歴史に関するある歴史家(P. アリエスのことである)の研究がある…彼が何故に慣習法令集の家族に関する条項参照するだけの配慮を怠ったのかが悔やまれる』p44

彼女は彼の仕事を批判的に受けとめつつも。その基盤のうえに立った研究者のよう。 日本では最近でもアリアスの著作がポジティヴに紹介されることが多い。しかし当然のことであるが、お膝元では批判的に検証され古典になっていくようである。 フランスと日本では多少の「時差」は覚悟しなければならないということか。

ところでこの本によると、フランドル地方では人糞を肥料に使っていたことが判る。 「フランドル風肥料」と呼ばれていたよう。p98 この地方はこの肥料によって大きな財をもたらすことになったとのことである。  

これに注目したのは西欧中世では下肥に関しては殆ど文献が見あたりません。一方日本の中世に関する文献だとすぐ目に付く。 西欧ではやはり下肥は一般的ではないようだ。もしそうだとすると、それはやはり身体性に繋がるものだからなのでしょうか? 西欧中世では、床屋兼外科医が差別されていたことなどとも関連があるのではないかと思われる。結論的にはこの本は「中世見直し論」の典型。ちょっと言い過ぎる嫌いもあるようには感じるが… 例えば、

『…中世にも当然、汗することはあったが、血と涙は見られなかった…しかしながら、19世紀においてはその時代の象徴ともいえる階級闘争。 このなだめ難い社会闘争を引き起こすようなものは中世には何もなかった…』p158-159 

とあるが14世紀初頭から16世紀にかけてドイツで勃発する農民暴動などを考えると、ちょっと言い過ぎではないかと思う。 とは言え、この本は色々認識を新たにさせられる点も多かった。特に中世の共同使用権について、例えば当時耕作地ですら「落ち穂拾い」という形で他人の利用権が認められていたという点。 

彼は幼い少女がまる1日をそれに費やせば、麦2キンタルを収穫出来る例を挙げている。 これはその少女の1年分のパンに相当する量だそうです? にわかには信じられませんが、かなりの量であることは間違いない。 そう考えるとあのミレーの「落ち穂拾い」も別の意味あいをもって鑑賞する事が出来そう。 
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