2006/3/23

『Zen Mind and Beginner's Mind』  お勧めの1冊

Shunryu Suzuki著、Shambhala Pubns 、1972年。紹介記事には『A respected Zen master in Japan and founder of the San Francisco Zen Center, Shunryu Suzuki has blazed a path in American Buddhism like few others. He is the master who climbs down from the pages of the koan books and answers your questions face to face. If not face to face, you can at least find the answers as recorded in Zen Mind, Beginner's Mind, a transcription of juicy excerpts from his lectures. From diverse topics such as transience of the world, sudden enlightenment, and the nuts and bolts of meditation, Suzuki always returns to the idea of beginner's mind, a recognition that our original nature is our true nature. With beginner's mind, we dedicate ourselves to sincere practice, without the thought of gaining anything special. Day to day life becomes our Zen training, and we discover that "to study Buddhism is to study ourselves." And to know our true selves is to be enlightened. --Brian Bruya』とある。

禅について読んだ数少ない本の1つであるが意外なことに最も理解し易かった。しかも英語であるというのが逆説的。しかしこれは案外理にかなっているかもしれない。何故ならば、この本は、バックグラウンドが全くないアメリカ人に、如何に「禅」をいうものの真髄を理解して貰うかに腐心した本で、60年代にカルフォルニアに禅寺を建てた故・鈴木老師の手によるもの。 また各章が数ページで読み切りなのがよい。 道元の「正法眼蔵」は私にとって古典過ぎて理解するのは大変であるが、その点では外国人とそう違わない。

この本の中でヨセミテの滝を流れ落ちる1滴の水滴を、人生に例えた1章があるが、これは私の生死観にも少なからず影響を与えた。
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2006/3/23

『完全言語の探求』  お勧めの1冊

ウンベルト・エーコ著、平凡社、1995年。著書紹介記事には『ヨーロッパとは何か、ヨーロッパはどこから来て、どこへ行くのか…。歴史と文化の深層を理解するための、最高の執筆陣による画期的書き下ろしシリーズ。』とあるがかなり難解。

余りにも難解な本は本末転倒という感じがしないでもない。 もっと判り易く書けなかったのか、との苛立ちさえ憶える。以下のリンクはそのこととも関連している。↓
http://diary.jp.aol.com/applet/salsa2001/20060317/archive
ここではアリエスの「死と歴史」という本を読みながら、「判り易い本」とはどういうものか考えてみた。反面教師にはなるだろう、

それは兎も角、この本の中で以下のような下りがある。

『…エピクロスが示唆したように、このような経験への反応が種族や風土や場所に応じて変わるものだとすれば、異なった種族が異なった時に異なったしかたで異なった言語の家族を生んだと考えても、向こう見ずなことではなくなるだろう。 ここから、さまざまな言語にはそれぞれに固有の精神があるとする理論が生まれて18世紀に発展をとげることになるのである』 p138 
『…17世紀になると、こうしたタイプの言語ナショナリズムの選りすぐりの見本があまた登場してくるのだ』p148

ここでエーコが解説しようとしたことは、ヘブライ語の聖なる「祖語」としての権威の失墜であり、近代における言語の「単一起源説」に対する「多起源説」の興隆だろう。しかしここで特に私が注目したのは、近代における自国語に対する民族主義的反応と、 こうした流れの1つとして、しばしば人文科学系とりわけ歴史学の分野での『自国語で(論文を)記述することに意味がある』という一種の文化革命である。しかもそれは現在に至っている。 

歴史のある人文科学系は、近代から引きずってきた『言語ナショナリズム』の伝統に結構従順だったのではないか、それに比べ新参者の自然科学、とりわけまだ半世紀の歴史もない分子生物学は一種の祖先還りのラテン的指向で『国際的でなければ科学ではない』『日本語で論文書いても業績にはならない』みたいな風潮がある。

著者は完全言語を巡っての、歴史的な様々なエピソードを辿った後「国際的補助言語」の章で著者は、英語がそうであるように、マス・メディアによって普遍的媒介言語が出現する可能性を述べる。 また同時に言語の断片化も『押しとどめることのできない過程』として描いている。p472

エーコの解説は、私には右に左に揺れているように感じられる。それは、もしかすると彼自身の葛藤なのかもしれない。 しかし最後には、『アダムへの贈り物としての祖語が、あらゆる言語の複合体であった』p496 というアラブのイブン・ハズムの言葉を接いで救いを見い出しているように私には思える。
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