2006/3/28

『中世ヨーロッパの歌』  お勧めの1冊

「豊かな歌声に満ちていた中世が蘇る」とのタイトルに引きつけられる。 ピータ.ドロンケ著 水声社出版。2004年7月初版。 紹介記事には『宗教詩歌と世俗歌謡との関係を強調し、世俗歌謡が11世紀に突然発生したのでなく初期中世から盛んに歌われていたとの推論が導き出されているとのこと。これはさきに南仏のトルバドール歌謡が実はグレゴリオ聖歌に起源を持つとの説「準典礼歌起源説」と同じ。 『トルバドール』より
http://diary.jp.aol.com/applet/salsa2001/20060305/archive

表紙には写本の挿絵からか、貴婦人とヴァイオリンのようなものを奏でるジョグラル、それに中央には踊り子。踊り子の官能的な肢体はフラメンコのムーブメントそのもの。
http://images-jp.amazon.com/images/P/4891765216.09.LZZZZZZZ.jpg

著者は云う『・・聖俗の別なく、中世の詩歌は、非常に深い意味で、一つの同じ伝統を共有する二本の織り糸とみることが出来るだろう・・・』p62 記録上、最初に賛美歌が西欧世界に登場したのはアンブロシウスによってミラノにて。 その時の情景を聖アウグスティヌスは「告白」に記す。p74 訳は先の「キケロ」の高田康成氏。 

日本語版序文に著者は、古代日本の万葉集の相聞歌と中世初期ドイツの対話詩との近似を述べる。p11 時空を超えて東西の詩歌に限りない類似性を見い出す時。文明の衝突とも言われる今日の世界情勢に何らかの解決法があるはず、と期待するのは余りにも情緒的過ぎるか?

トゥルバドゥールとして有名なアキテーヌのギョーム(AD1071-1127)には二人の愛人の名前を記した以下のようなあからさまな詩がある。 

『拙者には見事な馬が二頭あり、おのおの乗りこなしておる。・・・はてさてどちらを採るべきか、途方に暮れる、アニュスにすべきかエルマンサンにすべきか!』

著者はこの詩のメロディーと形式が賛美歌から採られたものだとするが、それを論証する記載はない。p242-3 しかしこれは以前話題にした『トゥルバドゥール』からのものだろう。因みに、アベラールは当代一流の詩人として評価されているが、彼自身の愛の詩は現存していないとか。ただ宗教詩が2編現存するのみ。p113
 
本の内容から外れるが、私が不思議に思うのは、詩が2編しか現存しないのに何故ロマネスク時代一流の詩人としてアベラール評価されているのか不思議である。エロイーズの贔屓目の書簡によるもの故か?

著者は最後に中世詩の研究に関して、安易な一般論や総論で片付けることの危険性を説き、詩作そのものの詳細な解析の必要性を説かれて以下のように述べられていますが、これは西欧中世詩研究に限らず全ての分野で共通すること。

『・・研究のモットーは、アビ・ヴァールブルグの「神は細部に宿る」でなければならない。』p504
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2006/3/28

『中世の聖と俗』  お勧めの1冊

ハンス=ヴェルナー・ゲッツ著、「中世ヨーロッパ万華鏡」シリーズ、八坂書房 2004年初版。ドイツの放送局の番組をベースにした本でカラー図版も沢山ありとても判り易い。

1章は「中世の結婚と家族」2章は「主の学校と共住生活」←修道院のこと。史料となっているのはともに修道院に保存された記録。前章ではあのサン・ジェルマン・デ・プレ修道院の荘園帳、後者はこれまたあのザンクト・ガレン修道院の年代記。これらの記録はあちこちで本当によく出て来ます。やはり当代最高級の史料だということが判ります。

著者は修道院について「俗世界との深い関わり合いを持っていた」との意見で今日の通説に従う記載。著者は以下のように述べ『天使のような修道士達』を書いたルドー・J・R・ミリスとは異なる立場。
『聖なるものと俗なるものを意図的に密接に結びつけることは、中世を通じたメンタリティーの特徴だった』p133

この本に納められている図版の中には修道院内で写筆が修道士のみならず俗人によってもなされているのをはっきりと現すものがあります。(図11)p127 これは『ハインリッヒ三世(AD1039-40)の典礼用福音書=ブレーメン聖書』 既にこの時代に写筆の職人がいたのが判る。 また後半2章はそれぞれ3;中世の生死観と4;中世における悪魔の認識と役割。 内容自体に特に目新しい事はない。

この本の中で著者は、

『中世の人間の目には世界は善き霊と悪しき霊に支配されているように映った。P248 としつつ、同時に、『悪魔物語が教育的な目的を果たすばかりか、独自の意図、あるいは敵を中傷する為の政治的な意図で悪魔が利用されることもごく普通に行われた』とし、『・・ここに中世のメンタリティーの特徴を示すことになる』と述べています。 p251
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2006/3/28

『天使のような修道士達』  お勧めの1冊

ルドー・J・R・ミリス著、新評論出版 2001年3月初版。著者前書きに『本書は・・歴史学の初心者を読者として想定してある』p18 と書かれているが、内容はこれまでの常識を覆えすような記載もある。 この中で著者は<中世の修道院は概して俗社会にとって重要な存在ではなかった>という主張をし、題名の『天使のような修道士たち』というのもそのような意味あいから。 ただし、ここで研究の対象となっているのは、ケルト系や地中海系の中世初期、並びにベネディクト派・シトー派などの「正統」な修道会であり、後期のドミミコ派やフランチェスコ派など、托鉢修道会は対象外。

特に個人的に興味を持ったのはシトー会に対する評価の部分。これまで一般的に云われているのとは異なる解釈がなされていました。例えば、

シトー会士は『生産性や効率を上げようとはしなかった』p100 とか、ロマネスク期の土地開拓運動は遅くとも11世紀には始まっていたが、シトー会の拡大は12世紀の第2四半世紀以前には遡らないとし、この時期の大規模な開墾事業にシトー会はあくまでも『ほかの数多くの参画者の一人としてである』p104 とか、 これは、一般によく云われている「シトー会がロマネスク期の土地開拓運動の中心的機能を果たした」という解釈とは意見を異にするもの。 

また『シトー会と彼等の寄進者(貴族)の間には目的は異なってもお互い駆け引き上、利害が一致した』p103  と述べ、例として、シトー会に寄進された土地の多くは荒野であり、かってのベネディクト派などに寄進された土地より負担は小さかったなど。 また、修道院の人口は当時の社会全体のおよそ1%であるとし、その多くは全人口の3〜4%を占めていた貴族階級の構成員の1/3〜1/4を修道院に吸収させることに働き、これは『先のばしされたバースコントロール法』p163 として、資産の分割を防ぐことで貴族の没落を回避する手段を提供した、とか。 

さらに、少なくとも中世初期において下層階級からの修道士への参入はなかったと結論されている。それなりに説得力があり、特に意外性があるものではありませんが、シトー修道院に思い入れがある人達からは嫌われる解釈でしょう。事実、著者自身前書きで『・・私(著者)の考えに(他の人々が)憤慨することもあった』p17 と述べられている。

また初耳だったのは、シトー会が導入した助修士なるものがこの時期、修道院に対して反乱することもあったとのこと。 因みに1168年〜1200年にかけては、そのような反乱は20回。 その後の100年にも30回あったとのこと。 p106

結論的に言えば、著者の意見は『当時の社会は修道院から殆ど何の影響も受けなかった』という点に尽きる。

例えば、修道院の芸術作品(←現代人の感覚における)について、大半の作品は柱頭の位置が高すぎ、また当時の聖堂は照明が不十分なため殆ど教育的な目的を果たすことが出来なかったとし、p313〜 また使われている象徴技法も余りにも秘義的であり一般の信者には理解出来なかったであろうと述べられていました。(著者はこれを述べる時にコンクのセント・フォア像を思い浮かべていたそうである) p314  さらに加え、一般の信者が直接接触を持つ地元の司祭は、不十分な教育しか受けてない為、直接的で単純な説明しか聞くことが出来ない問題もあったとのこと。 p316  このような様々な制約から著者は一般の信者は修道院から何の影響も受けなかっただろうとし、それに代わるものとして影響を受けたのは、むしろ世俗の教会であるというのが著者の結論。 

最後に「訳者あとがき」で、いままで流布していた『修道院から中世社会は多くの影響を受けた』という通説は西欧人の中でも広く広がっており、この点に関しては我々日本人と西欧人の間で大きく異なるものではないだろうと述べられていました。 

しかし率直に云って、平均的日本人がそんなに西欧の修道院について意識が高いとも思えないのだが?

それから特にシトー会の修道院建築・美術に関して著者は、定住が定めの修道士と異なり、シトー会の助修士(労務修士)、はもし彼が特殊技能を持つ場合は修道院から修道院に移動し修道院建築に携わるのが慣例だったとし、これがシトー会の建築様式が共通していたことと関わっているとのこと。 ただし、この慣例はシトー修道会内部では反対があったとか。p308  
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2006/3/28

『中世農民の世界』  お勧めの1冊

副題;「甦るブリュム修道院所領明細帳」は本格的な学術書というわけではなく一般の読者を対象とした本のようでむしろ読みやすい。

『注の材料としての原本』p72から続く数ページで、明細帳の記載を詳細に検討することでこの明細帳が基本的には9世紀の状況を示す史料だと著者が結論する部分。 これはそれまでの通説である「13世紀の状況を示すもの」という解釈を批判する部分で、ここで著者は高度なロジックを駆使するわけではなく、中学生にも判る簡単な説明でこれまでの通説を批判し、これが原本の9世紀を状況を示すものだと結論づけている。

『…つまりカエサリウスは、筆写をしながら底本にある明白な矛盾に気付き、自分なりにその解決を探った…マンス*当たりの額を石板にでも計算し、それに48を掛けているカエサリウスの姿が目に浮かぶではないか。』 p75-6

カエサリウスも現代の我々と同じく明細帳の記載を解読すべく、いろいろ計算して悩み、それが枠外に書き込んだ注釈に現われている。 そして現代の我々はその彼の苦労の跡を辿ることでこの写本の内容が彼の生きた13世紀の農村社会を表すのではなく原本が書かれた9世紀のことであったと推論出来る。 

*)此処でのマンス(フランス語)ドイツ語でフーフェと呼ばれるものの実態は、屋敷と10〜15ヘクタールの耕作地、それに領主直領とされる森林等の用益権。 p18 

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