2006/3/29

『イスラーム文化』と『原始仏典スッタニパータ』  お勧めの1冊

『イスラーム文化―副題;その根底にあるもの』 岩波文庫 井筒 俊彦 (著)  1991年 著書紹介には『イスラーム文化を真にイスラーム的ならしめているものは何か.――著者はイスラームの宗教について説くことからはじめ,その実現としての法と倫理におよび,さらにそれらを支える基盤の中にいわば顕教的なものと密教的なものとの激しいせめぎ合いを認め,イスラーム文化の根元に迫ろうとする.世界的な権威による第一級の啓蒙書』とある。

この中で、九世紀の最大のスーフィー(イスラーム神秘主義者)の一人であったバーヤジード・バスターミーという人の言葉に、

<蛇がその皮を脱ぎ捨てるように、私は自分の皮を脱ぎ捨てた・・・>とある。p349 

この言葉はまさに「原始仏典スッタニパータ」の各章の最初の繰り返しと同じ。仏教ではこれは解脱を示す文言だが、仏典の影響があるのではないか? ちなみにこの原始仏典には最後にこの言葉がある

『犀の角のようにただ独り歩め』

この意味は、欲望やしがらみに打ち勝ち、独り決然として修行に励めということ。インドサイはアフリカのサイと違い角は1本なので、個人の悟りを中心とする南方上座部仏教(小乗)の象徴として使われたらしいが、後には大乗が小乗を批判する言葉として、即ち『一角犀』という言葉で個人の悟りだけを求める狭さの象徴として使われることもあったよう。 

この言葉はスッタニパータの各章の最後の言葉として繰り返し、繰り返し使われたらしいのですが、原始仏典では同じく繰り返し使われる言葉として、先に挙げた冒頭の『蛇がその皮を脱ぐように』という 

頭が蛇で尻尾がサイということで面白い。多分、蛇もサイも当時のインド人には日常的な存在だったのでしょう。 因みに中国ではこのサイは存在しないのでキリンに変わったとか、この1角獣、日本にもやってきて、京都の西本願寺の国宝唐門や知恩院の三門に描かれれいるとか。 さらにこの1角獣、西欧にもやってきたようで、いまパリのクルニュー中世博物館でみることが出来る。あの有名な「5th sense」、昔むかしにアップした私のHPに載せているもの↓
http://www.greengrape.net/hiroshi/03_crunny_01.html

これらが仮に相互に関連があるとするなら、仏典がイスラームにも、キリスト教にも流れたということになる。もし事実なら興味深いこと!

なお『原始仏典;Udana VI4』もこのblogで紹介しているので参考にして貰いたい↓
http://diary.jp.aol.com/applet/salsa2001/20060320/archive

この本の中に収められている「イスラーム生誕」という、短い著作がある。これは著者の若い時の作品で文章の端々から情熱がほとばしるような文体。 この中で、井筒氏はムハンマドの教えが広がる背景として当時のアラビア人の精神状況を以下のように記している。

『イスラーム誕生前夜のアラビアでは、若い世代はまさにこのような重大な(精神的)危機的状況に追い込まれていた』p43 

著者はそれを彼が<悲劇的>と呼ぶ数々の詩歌を文献的に挙げて論証する。 しかし 『何故そのような精神的危機状況が訪れたのか?』 についての記載はなかったように思う。 

私が思うに、これは確かB・ルイスの本だと思うが、このジャーヒリーア時代、特にイスラーム誕生に遡ること数世紀前、ベドウィンの社会に社会的危機が起こった。それは人口の急増と南アラビアにおける治水ダムの決壊を象徴とする農業の崩壊であり、多くの南部のアラビア人が北に避難せざるを得ない生存の危機的状況あったという事実と何らかの関係があるのではないか? 時期的にはかなり幅があるので直接関係はないかもしれないが、今後の課題としたい。

いずれにせよ、ある思想(宗教)の誕生はその背景となる社会の時代状況抜きには考えられないと思う。
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2006/3/29

『北アフリカのイスラーム聖者信仰』  お勧めの1冊

鷹木 恵子著、刀水書房、2000年 紹介記事には『北アフリカ・マグリブ地域のイスラームにおける、特に聖者信仰の位相に焦点を当てて、その具体的な形成過程と今日的状況とを、チュニジアの一つの村を舞台として描いた民族誌』とある。

チュニジア内陸部、ジェリード地方のフィールドワークによるもの。 その中でこの地方独特の「ファラオの祭」紹介し、この儀式が西欧の「5月祭」あるいは「5月の樹」の行事との多くの共通性を指摘している。

『・・・このことは地中海を隔てて、その北岸と南岸がそれぞれ今日ではキリスト教世界とイスラーム世界に分かれていながら、双方の基層文化においては地中海世界としての共通要素を見い出せることや、またジェリード地方が古くはローマ文化圏下にあったことを想起させる興味深い行事であるといえる』p164 

聖者信仰にしても、このお祭りにしても地中海の北岸と南岸がその基層文化においては多くの共通性をもつということは、当り前と言えば当り前の事。 しかし、しばしばキリスト教圏とイスラーム圏を対立軸とするような雰囲気の中ではこのことは忘れられる。 この本は文字どおり各論に徹したもので、判り易い。 各論の積み上げの中からしか総論は生まれてこないもの。

ここで著者は一事、この北アフリカの聖者信仰とハイチのVoodooの共通性も指摘している。これはもしかすると奴隷として西アフリカのナイジェリア近辺の黒人がサハラ越えしてチュニジアにも、またミドルパッセージによりカリブ海にも渡ったからかもしれない。ただし著者はこれについては何も述べていない。多分研究者としての「慎み」であろう。
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2006/3/29

『聖書』『クルアーン』『古事記』『日本書紀』  お勧めの1冊

以上の書籍をもとに東西の異本・異説の取扱について考えてみた。

キリスト教世界では、度重なる公会議により異説(異端説)の類はかなり初期の段階で厳しく排除されていった。一方、イスラーム世界は、もともと「異端」という概念がなく、クルアーン(コーラン)の異本も初期には問題を起すことなく存在していた。ところが、10世紀頃にはじまるイスラーム法学の発達とマドラサの普及がこれらの異本を自然消滅させ、3代目ハリーファ(カリフ)であるウスマーン(〜 AD656)によって編集された正本に統一されていったのは先にみた通り。 ここで自然消滅という点がキリスト教世界と大きく異なる。

さて日本では、大和朝廷の正本である日本書紀ですら異本の類を破棄することなく並記していた。それぞれの文化圏で異本、異説(異端)に対する対処の仕方が大きく違っている。勿論、一神教と多神教といった基本的違いもあるが、同じ一神教の世界でもキリスト教圏とイスラーム世界では対応が違うことは注目に値する。

具体的に古事記、日本書紀本文、そして日本書紀異本の違いを「神功皇后伝説」を例にとり比較してみよう。

<登場する神様>
1)日本書紀第1の1書;向◯男聞襲大歴五御魂速狭謄尊、底筒男神、中筒男神、表筒男神
2)古事記;天照大神、底筒男神、中筒男神、上筒男神
3)日本書紀本文;◯賢木厳之御魂天疎向津媛命、稚日女命、於天事代玉◯入彦厳之事代主神、底筒男神、中筒男神、上筒男神  『日本古代の神話と歴史』p89より、

底筒男神、中筒男神、上(表)筒男神などの住吉三神は共通だが、あとの神様がそれぞれ違う。 中でも「日本書紀第1の1書」の神様(向◯男聞襲大歴五御魂速狭謄尊は田舎出の神様。 またこれまでの研究から時代順は <日本書紀第1の1書→古事記→日本書紀本文> と推定されているそうで、そうだとすれば地方の神様から次第に中央の、より普遍的な神様に登場人物ならぬ登場神が変化しているのが判る。 

これは 『九州者が大和朝廷の天下統一の片棒を担ぎ出世したことで、彼等の祭る地方の神様が日本の神様に昇格した』 ことを意味するとか。 ような九州者の1豪族に、後に大和朝廷の水軍を束ねた「阿曇連」がいる。 彼等が本拠地を関西に移してもなお、故郷を懐かしんだことが万葉集に詩われている。p154

「ちはやぶる金の岬を過ぎぬとも、われは忘れじ志賀の皇神」万葉集1230

彼等が祭ったのは志賀島にある小さな志賀海神社だろうと考えられている。 この島は奴国の金印が見つかった島。現在では砂州により陸続きになっている。
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2006/3/29

『神話学と日本の神々』  お勧めの1冊

平藤喜久子著、弘文堂、2004年 紹介記事には『日本神話の比較神話学的研究、今日の到達点;日本神話が他の国々や民族の神話と比較して研究されるようになったのは、1899年(明治32年)のことでした。以来、日本の比較神話学は100年余の歴史を持っています。本書の第1章と第2章はこの比較神話学研究史、第3章以後はフランスの神話学者デュメジルの神々の三機能説の検討を軸に、著者独自の分析が行われます。日本神話の二大神族、天神と国神の分類の論理と三機能体系との関係、デュメジルの研究視点がそのまま日本神話に適応出来るのかを論じた後に、4章は彼の理論が神話だけでなく、日本の歴史的伝承についても適応が可能か、神功皇后をめぐって展開した注目の論考』とある。

前半部分には、明治時代に始まった日本神話研究を現代まで、日本神話研究史とでもいうものが紹介されている。 その中には最近の傾向としてユング心理学などの方法論も紹介されている。しかし、私にはもう1つ抜けていることがあるような気がする。

生物学を生業とする者にとっては、「ゲノム研究」も取り入れることが出来ると考えている。例えば縄文時代の遺跡から発見された稲の遺伝子解析で、これが朝鮮半島で栽培されていた温帯ジャポニカ米より東南アジアの焼畑で栽培されている熱帯ジャポニカが多いということが判っている。 また時代を下って弥生時代でも両者が混在しているとか。「稲」と「日本神話」とは切っても切れない関係。こういったことからも神話研究は進めていくべきだろう。先に紹介した『稲作文化の世界観』にも同じことを感じた。
http://diary.jp.aol.com/applet/salsa2001/20060225/archive
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2006/3/29

『人々のイスラーム;その学際的研究』  お勧めの1冊

日本放送出版協会 1987年出版 片倉もとこ編。 広範なイスラーム研究者による短編論文集。紹介記事には『中東の人々を支えるイスラームの現実の姿を初めて明らかにする画期的論集』とある。

キリスト教では異端の問題が何度も大きく取り上げられた歴史がある、それに対しイスラーム世界では一般に異端はあまり大きな問題とはなっていない。 後藤晃氏の『イスラームは歴史の中で何を棄てたか』の章は直接異端の問題ではないがそれなりに非常に面白い。

「コーランの異本の存在を抹殺しようとする動きは10世紀までイスラーム世界に無かったが、ウスマーン正本のコーランを法源とする法学の発達とマドラサの普及はこのような異本を自然消滅させた」p160

「コーランには1つの法的なことがらについて矛盾した文言がしばしばある。 イスラーム法学では、その矛盾を、時期的に先に啓示された文言を後に啓示された文言が取り消している、とみなして解決する・・・10世紀の人タバリーなどは・・・対立する複数のハディースを引用して『どのハディースが正しいかは神のみぞ知り給う』として判断を停止している」p162 著者は、

「法学の発展とマドラサのシステムの普及は、10世紀まで知識人がもっていたコーラン理解の多様さ、柔軟さを棄て、ムハンマド(マホメット)理解のそれをも棄てていった」p163

と述べ、イスラーム世界において11〜12世紀頃普及したマドラサが、イスラームの枠組みの固定化を引き起こしたと述べている。 果たしてこのようなことは同じ頃西欧で発展した大学において起こらなかったのか興味あるところだが、おそらくキリスト教圏では既に公会議によりそれまでに多くの異端とされた説(アリウス派、単性派、ネストリウス派等)が排除されていたので事実上問題がなかったのだろう。 それにしてもキリスト教圏に比べ穏やかに異説、異端の類は処理されていったという感じがある。

カトリックでは「聖人」の存在がある。イランに於てもそれに相当するものが存在するとのこと、上岡弘二氏による『イランの民間信仰の聖所をめぐって』によれば、

「聖所の多くが、イスラーム以前のゾロアスター教のそれを引き継いでいる」p272  
「聖所には、ところ狭しとまでに、多色彩の聖像画がはってある」 p281とし、
その中にはあの予言者ムハンマドすらあるとのこと。 彼はモスクと聖所の区別に関してこのように簡潔に表現している。

「レクリレイションを兼ねて、ピクニックについでに(聖所に)参詣するのも一般的である。ちなみに、レクリレイションを兼ねてモスクに行くことはない」p261 

このような状況はイラン以外でもあることについては北アフリカでの聖者信仰で実証されている。それについては次に述べたい。

いずれにせよ、我々のイスラーム世界に関する情報はしばしば公的イスラームについてのものでこのような土着のイスラームについてのものが少ない。
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