2016/7/31

『イスラームから見た「世界史」』14  お勧めの1冊

相模原市の障害者施設での殺人事件
「世界には8億人の重度障害者がいる。かれらにかける費用を他に必要としている人たちに使った方がよい」

この発言の倫理性は兎も角、論理性は大したものだ。私の心の中にそれを部分的にでも肯定する声がないとはいえない。私自身運転免許の裏に「植物人間になる延命治療は拒否します」の一言を入れてカバーを被せている。

先に私は『犯人の異常性というものは正常人の精神とつながる部分が大抵あるものだ。 として、この犯人の言葉に  <それなりの論理性はある> と述べた。 
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我々は、この犯人を薬物中毒者にしてこうした事実から目を背けようとしていないか? 憂鬱な事件が起こったものだ。

先のblogで述べた、GPSによる犯罪可能性のある人の常時監視はプライバシー侵害の憲法違反との判断があるらしい。しかしそれなら事件をまだ起こしていない殺人予告者の措置入院も人権侵害の憲法違反にならないか? 識者の意見を聞きたいところ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160730-00004945-bengocom-soci




『イスラームから見た「世界史」』14
ここでトルコにおけるアルメニア人迫害の歴史が書かれていた。否、迫害というような生易しいものではない、虐殺の歴史と云った方が正しい。

アルメニア人はトルコ人より前から小アジアに住んでいたが、ヨーロッパ人でもトルコ人でもなかった。彼らは多くのモスレムの中に住む少数派キリスト教徒だった。あの特徴的なアルメニア教会がそのシンボルだ。
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在米中アルメニア人(当時はアルメニアという国はなかった)と同居したことがあり、日本人としてはかなり早くからその存在を知っていた部類だろう。
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彼らは支配階級の職業から締め出されていたので、彼らができないことを、つまり金融業を生業にしていた。これはユダヤ人も同じ。ともにモスレムやキリスト教徒が禁止されたことに進出した。p527

またそれ故に、恨みをかうことにもなった。1894年から1896年にかけての民族浄化で30万人が殺されたという。p529 しかしそれは第一次世界大戦時に起こった民族浄化の前振りでしかなかった。一説にはこの時期の「強制移住令」により100万人を超えるアルメニア人が犠牲になった。因に現在のアルメニア人口は310万人。 この数字が正しいなら3人に1人が民族浄化の犠牲になったことになる。著者も言うようにこれはユダヤ人のホロコーストを越える。
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2016/7/30

『イスラームから見た「世界史」』13  お勧めの1冊

この時期、試験・採点に来月のシンポの準備、さらに降ってわいた国際交流事業への申請と忙しい。それで実験も佳境に入っているので暇を見つけて、というよりも時間を無理やり作って押し込む。 国際交流事業は来年度からの3年間の計画。相手からの申し込みなので断るわけにはいかないが… となると、最初の1年だけ。あとは定年なのでどうなるのだろう? ま、その時また考えればよい。



『イスラームから見た「世界史」』13
著者はいう、「蒸気機関」も「水力タービンを用いた精密な機械=大時計」もすでに16世紀や10世紀にそれぞれイスラーム世界や中国で開発実用化されていた。しかしそれが「産業革命」を引き起こすことはなかった。何故か? p494

それは発明よりもそれを生かす社会的状況があるかないかが決定的な要素であるからだと。蒸気や水力タービンが活躍するにはどちらの世界も労働力が十分にありすぎた。中国は人口過剰だったし、p497 イスラーム世界ではそうした動力機関の導入で、それまで家内工業に従事していた女性が社会押し出されるような西欧でみられた事態は起こりようがなかった。p501

そして、何よりも大きな違いは、こうした変化は社会的不安を引き起こすが、それに対し西欧は対応できる、個人主義という精神的心構えがあったと。p499
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2016/7/29

『イスラームから見た「世界史」』12  お勧めの1冊

『イスラームから見た「世界史」』12
ここで著者はこの3つのイスラーム復興運動について簡単に説明するが、その内容はこれまで読んだこととそれほど食い違うものではない。

巷ではこれらのうち、最後のアフガニーの思想が現在のイスラーム主義につながるものとして注目されているとのことだったが、この本の著者もそれについては特に異論はないようだ。曰く、

『アフガーニーは史上はじめて、イスラームと西洋という2つの言葉を同格のカテゴリーとして、そしてもちろん歴史的に対立するカテゴリーとして用いたのだ』p486

この文章に今の我々は何の違和感も感じない。しかし著者がいみじくも「史上はじめて」という言葉をつけているように、「それまではそうではなかった」ということだろう。こうしたことはこれまでも何度か経験がある。サイイドの「オリエンタリズム」を読んだ時にも感じたし、
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そのほかの本でもでも感じた。
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つまり著者も含めて我々自身が「時代の子」であるということ。当時当たり前でなかったことが、読み手の我々には当然のことに受け止められ、著者の意図がつかめないことが起こる。

さて、アフガーニーの思想は彼が国際的な人物あったこともあり、イスラーム世界のあちこちで発展した。ただ、面白いことに彼は1冊の本も書いていない。彼は論客であり、扇動者であり、また教育者だった。特に彼の弟子の存在が彼の思想をいく先々で燃え上がらせるのに重要な役割を果たしたようだ。彼にはそうとうなカリスマ性があったということだろう。p490


ところでこの本ではアフガーニーとか、マディーナ、マッカというアラビア語に近い発音で書かれている。高校世界史でアフガニー、メディナ、メッカと学んだ者としては頭の中で翻訳していく必要がある。やはりこれからは学校教育でもアラビア語発音で統一した方がいいでしょう。
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2016/7/28

『イスラームから見た「世界史」』11  お勧めの1冊

『イスラームから見た「世界史」』11
第13章は「改革運動」。これこそ現在につながる潮流だろう。冒頭著者は1800年にはじまり、今日の世界をも揺るがす重大な結果をもたらした運動とする。p455

ミドルワールド(著者の造語で中東をほぼ意味する)で西欧の圧力が始まるのと軌をいつにしてこの世界全域で急速に始まったとするが、この2つの動きはお互いに関連はするが、同一の運動ではないという。つまり西欧人の存在とは無関係に始まった、ムスリムの現状に対する異議申し立てだとし、同様なものに西欧の「宗教改革」を指摘する。ただし、西欧の場合にはそれがローマ教会に対するそれだったのに対し、イスラーム社会には教会は存在しなかったが、それに代わるものとしての官僚主義が広まっていたという。p455

つまりウラマーの権威は揺るぎないものとなり、スーフィー教団は制度化されてしまった。つまり「イジュティハードの門は閉ざされた」。

ここで懐かしい言葉がまた出てきた。イジュティハードである。これはこの著者の定義によれば、

 <理性に基づく自由で独立した思考> 

ということである。私はこの言葉にイスラームの大化けの可能性を感じていたのだが、その理解が正しかったのかどうか、まだ疑問も残っている。
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さて、これに入る前に、当時どのような状況にあったのか、その背景説明がなされる。古代都市にはかつて栄華を誇った宮殿がそのまま残り、シャーやスルタン、あるいはナワーブ、ハーン、ヘディーブ(エジプト)といった古来からのムスリムの君主を仰ぎ治世が保たれていたが、実体は外国人がイランではアドヴァイザーとして、トルコではコンサルタントとして、エジプトとレバントでは「保護者」として存在していた。p460

一方でイスラーム勢力の地理的発展は止まり、西欧に取り囲まれ、かつ取り込まれていた。かつてのムスリムの華々しい勢力拡大がアッラーの神の啓示の真であることの証明であるとするならば、この事態は何を意味するのか?こうした疑問がムスリム社会を重苦しく覆うようになったとする。p461

こうした中からのちにイスラーム改革運動とよばれる3つの動きが生まれた。1つは(私の言葉で言えば)サウジアラビアから、サウド家とワッハーブの提携による原理主義運動であり。
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もう1つはムガール帝国に生まれたサイイド・アフマドによるイスラームの近代化。そして最後にあのアフガーニーによるイスラーム魂洋才。
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上記の理解は私のこれまでの学習から来た独断と偏見によるもので間違っている可能性が高い。さて、これからどのようなことが書かれるのか楽しみだ。
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2016/7/27

GPS監視システム導入の是非  試行,指向,志向、思考

驚くべき事件が起こった。事件そのものだけでなく、その犯行を予告する手紙を持参して衆議院議長宅まで行き、警察での取り調べを受け。それに伴って強制入院などが行われたにもかかわらず今回の惨劇を引き起こしたらしい。 報道では尿検査で大麻の陽性反応が出たことから、薬物影響下の犯行を伺わせる内容になっているが、本当だろうか? 
http://www.kanaloco.jp/article/188416/

薬物中毒者による犯行というストーリーがたてば、社会が納得し易いという現実がある。しかしそうした異常性というものは正常人の精神とつながる部分が大抵あるものだ。 報道が正しければ「私の目標は重複障害者の方が家庭内の生活、社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界」「人類のためにできることを真剣に考えた答えです」という文章には、その結論が障害者の殺害という点を除けば
   <それなりの論理性はある> 
マイノリティー排除の思想の発展系とみてもよいのではないか? 

それとは別にして、「職員の少ない夜勤に決行」と予言したにもかかわらず、元勤務先での犯行を予防できなかったのは、「後出しジャンケン」と言われるかもしれないが、かなり今回致命的ミスがあると感じる。 病院、警察、障害者施設間に情報共有の仕組みがなかったのではないか??

テロもそうだが、こうした犯罪を未然に防ぐことは不可能だ。しかし可能性の高い潜在的犯罪者に対する監視システムは必要な気がする。米国ですでに導入されたとかいう、潜在的犯罪者に対するGPS監視システムを導入する時がきたのでは?
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2016/7/27

『イスラームから見た「世界史」』10  お勧めの1冊

『イスラームから見た「世界史」』10
著者は西欧が3つのイスラーム帝国(ムガール、サファビィー、オスマン帝国)に侵入したことは「文明の衝突」のような事態を引き起こしてはいないという。この「文明の衝突」という言葉はルイスハンチントンの本を意識してのことだろう。
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著者はこれが平和裡に、貿易商人によって行われたものだと言う。実際、西欧がこの地域に進出した時期はこれら3つの帝国は絶頂期でにあった。p406 当時サファビィー朝の首都イスターファンを訪れたあるヨーロッパ人は世界の富の三分の一がここにあると書いていた。

それはともかく、その後のオスマン帝国の凋落についていえば、衰退の兆候は2つあったと著者はいう。1つはウイーン包囲(AD1529)であり、もう1つはレパントの海戦(AD1571)。しかし共に、これらはオスマン朝の人々にとって、凋落の兆しとは思えなかった。なぜなら前者は、スレイマン時代はオスマン朝の最盛期の出来事であり、後者は確かに西欧からは、歴史的転換を示す海戦と見なされたものの、オスマン側から見れば翌年にはこの海戦で失った以上の艦隊を建造できたからだとする。これをして著者は言う、

『歴史の潮流を漂っていた当時の人々(オスマントルコの人々)にとって、客観的な評価を下すのは困難だった』 とも。p413

また最後に著者が述べたことは今日の日本でも認められることなので、特に注目したい。それは、

『(社会が停滞しはじめると)保守主義者はえてして社会の道徳的な枠組みを激しく批判し、規律や年長者の尊重といった旧弊な徳目を復活させよと声高に主張するものだ』p415




、、、この後は、私の勝手な理解。

「家族を大切にする」ことをわざわざ新設して、憲法に入れようとする動きもこれに似た現象。
自民党の憲法改正草案(3章24条)新設条案
https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/news/policy/130250_1.pdf
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2016/7/26

『イスラームの美術』2  お勧めの1冊

著者は、
『イスラーム地域では中世を通じて科学が著しく発達していた。それはキリスト教と異なり科学が宗教と矛盾することなく歴代王朝により保護されていたからだ』 という。p86 

しかしそれなればなぜ、イスラーム世界はその後、衰退したのか説明できない。バーナード・ルイスはこれについて、アッバース朝後、閉鎖的になり外の本を翻訳することが無くなったからだと論破した。
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この説明は正しいと考える。実際著者も後で述べるように、挿絵が施されたアラビア語写本は14世紀半ばまででその後衰退するという。p88

<ムハンマドの画像化のタブーは最近のトレンド>
「ムハンマド描写の変遷」によれば、ムハンマドは神ではなく預言者であるので、クルアーンやハディースには絵画上での規制は書かれていない。p106 ペルシャでは14世紀までムハンマドは描かれていたようだ。それが次第に聖化され、14世紀〜15世紀にはやや大きめに描かれ、緑色の長衣をまとい、金色の光背を帯びて描かれる。さらに16世紀以降はムハンマドの顔を描くことが忌避される。p107 

そう、ムハンマドの画像のタブー化は最近のトレンドなのだ。
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<データーベースとして>
もともとのアラビア語の「アラビアンナイト」には挿絵はなかったか、あるいは残っていないらしい。18世紀にフランス人のガランが翻訳し、これは世界中で人気になり、挿絵入りでイスラーム世界で出版されるようになったのは19世紀になってからだとか。p91
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2016/7/25

『イスラームから見た「世界史」』9  お勧めの1冊

2001年サウジの最高宗教権威者はポケモンを「多神教で、進化論的で、シオニズム的」だとのファトアをだしている。
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ファトアは絶対的ではないが、ポケモンGOはサウジで広がるだろうか? これは1つの指標になるかもしれない。
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『イスラームから見た「世界史」』9
ここでもまたムガール帝国を建設したバーブル・ナーマの名前が出てきた。ぜひ、彼の回想録を読んでみたいものだ。p358
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ヒンデュー教徒として生まれながらもスーフィズムに到達し、スック教の創始者となったナーナクという人物がいるらしい。p364 最初このスック教というのが何なのかわからなかったが、その後、このスック教徒の男性は湾曲した長い懐剣を携帯することが、神聖な掟で定められたという文章に当たって、p366 ようやくこれが所謂、シーク教徒であることに気がついた。というのは、在米中論文(JBC)を一緒に連名で出したポーラの旦那さんがシーク教徒で、この懐剣を携帯しているということを思い出したからだ。(拳銃どころか機関銃ですら合法的に持てる国だからナイフくらいはOKなのだろう)

彼女自身のバックグランドはギリシャ移民(の子?)だったと思う。彼の地はそういう意味で極めてインターナショナルだった。事実、医学研究センターにはアメリカ人よりも外国人の方が多かった。
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さて、この中で先の塩野氏に聞かせたいような文章があった。塩野氏はそこでサラセン人が皆海賊だとしたが、
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ここで著者は逆に、

『ホスピタル騎士団(=ヨハネ騎士団)はロードス島を征服し、ついでマルタ島に本拠を移して事実上の海賊として行動し、地中海を航行するムスリムの船舶を略奪した』

と述べる。p373 
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2016/7/24

地中海へ行きたい  

「BS小さな村の物語イタリア」
「ヨーロッパ空中散歩」とともに好きな番組。 今日はシチリア編。

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コッポラ一族の1人、30歳働き盛り。その日の漁の収穫が80ユーロ、不漁のこともある。子供1人、今は家を買うのが夢。

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叔父は引退して緩やかな毎日を過ごす。3回船を買い、家を買い、貯金はないが満足しているとか。今日はイカスミのパスタ。お金持ちではないかもしれないが、豊かな生活。

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地中海にはまだ一度も行ったことがない。南仏ツールーズの街止まり。海を見ることは出来なかった。来年3月には是非イタリアの学会へGO! そして再来年はピースボートのフライト&クルーズで地中海の船旅と決めている(断言)ワオ! 
http://www.pbcruise.jp/flight_and_cruise/index.html#area92_6
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2016/7/24

『イスラームから見た「世界史」』8  お勧めの1冊

週末の読書はオスマン帝国の崩壊にはじまり、近代から現代まで急足で著者のミドルワールドを見てきた。あまりに多くの知らないことが出てきて、十分理解できたとはとても言えない。 それでも幾つか、これまで大きな誤解をしていたことに気がつき考えを修正できた。

最大の間違いの1つは、あのイラン革命について、アリー・シャリーアティーの思想がホメイニを動かしたと考えていたが、これは全くの間違いで、シャリーアティーはイスラーム社会主義者、ホメイニは保守的宗教家ウラマーで、確かにイラン王政を倒す時点ではお互いに協力しあったが、そのあとホメイニ一派はうまく立ち回り前者イスラーム社会主義者を権力の座から追い出してしまったということらしい。
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これについては、いずれ後ほど、



『イスラームから見た「世界史」』8
ここで著者はあのチムールのことを、

「チンギスからフラグに至る史上名高いモンゴルの征服者たちも彼チムールに比べれば善人と思えるほど残忍さにおいて上をいく人物」  として描写する。p302

これはティムールを建国の父とするウズベキスタン人に聞かせたいところだ(笑)。
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著者はあのイブン・タイミーヤをサラフィー主義=イスラーム原理主義の元祖とする。p309 実際これはあちこちで聞いたことがある。この13〜4世紀のイスラーム法学者の「ジハード論」がビンラディン等を生み出した原因の1つだとする論評が9-11後に議論されていた。
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しかし、彼の過激な思想はもちろん当時の権力者からは忌み嫌われた、そして結局そのことは彼をして獄死へと導いた。p310 だが、彼の過激な原理主義的思想はその後、4世紀半後に復活したと著者はいう。p311

最後に著者は彼の思想がプロテスタントと似たところがあるとする。すなわち信仰の源泉たる「クルアーン=聖書に戻れ」と云った点においてである。しかし両者には決定的に異なる面もあった。それは後者が反逆すべき対象=教皇とローマ教会を持っていたのに対し、イスラーム社会にはそれに相応するものがいなかった。さらに前者が本質的に個人に関わるものだったのに対し、後者はウンマ=共同体に関わることだったという点においてである。p391 

非常によく理解できる。本当に学ぶところがある本だ。
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