2020/1/8

『太宰府の役人と文房具』 & 『太宰府紀行』  お勧めの1冊

<数値目標>
https://www.youtube.com/watch?v=rqCA-PAqcdE&list=PLrWxcegPNiyj-M05glrorpUrXekNDKejm&index=12
HSK4,#11〜12 背四十七分钟单词。

https://www.duolingo.com/learn
サファイヤリーグ459XP, +124XP, 二十二分钟。一共一个小时九分钟。

运动;爬山散步320kcal和一个Aerobics课。

絶不調! 勉強進まず。今日はExtraな予定が1つ入っていたが、それとて1時間で終了するもの。あと1時間は勉強できるはず。

結局読書三昧に変更、『60歳からのリアル』他を読み上げた。大部分はToo late ではあるが勉強になりました(汗) さらに『中東の世界史』を50ページほど読んだところで、すでに1度読んだことがある本だと気がついた(汗) それでも全く無駄というわけではなかった。前回読んだ時には「注目すべき」とメモした点が、2回目は当たり前のことして、スルーしそれ以外の点に注目していることがわかったから。やはりそれなりに頭に入っているのだと納得。
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その後は気分転換に早くからジムに直行。ま、運動が目標達成できただけも「良し」としたい。ジムに行けば自然と数値目標が達成できる。ホリエモンならぬ凡人には独学は難しい。これが学校効果(=ジム効果)。トレッドミルの運動の方はまだまだいけたが、知らずに無理して膝とかを痛めると怖いので320kcalという中途半端なところで中止。
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とはいえ、実は体重が正月休みの間に急激に増えている。あと少しで60kgに届く。BMIは22で普通体重をキープしている状態ではあるが用心、用心。運動を休むと途端に響く。

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う〜ん、グラフを見ると11月頃からジリジリ上昇している。正月休みの問題ではなさそう(汗)数字は思い込みや誤魔化し、自己暗示を防げるね! 



『太宰府の役人と文房具』
九州歴史資料館、2016年。

紙は当時非常に貴重で人夫1日の日当で買える紙は10枚ほど。それゆえ、不要となった文書が反故紙として再利用された。その中で漆器を保存・保護するために使われた。それにより紙が漆を吸着したことで紙の表面が漆でコーチングされ地中で腐食され失われやすい紙が今日まで残ったとか。実に面白い。p56 こうした紙に書かれた文書は重要な情報となる。

木簡は太宰府政庁跡からは900点が出土しているが、うち43のみが完全な木簡で後は削りカス。これは官人が習書の後で削ったものらしい。p62 また先に太宰府で出土した木簡は針葉樹のものが多いが、平城京での太宰府関連木簡は広葉樹が多いという記載があった。これについて納得がいく説明があった。それによると西海道諸国から進上された荷札は太宰府で広葉樹のもの(木肌が白く読み易い)に転記され、ここから平城京に送られたという推察。p63 つまりよそ行き(朝廷)用に綺麗な名札に付け替えた。こうした考察を待っていた!
 
それ以外に注目したのは、付札荷札の大半が染料の原料となる紫草に関わるものだとか。p62



『太宰府紀行』
森弘子監修、海鳥社、2011年初版。計10人の著者によるもので気楽に書かれた内容だと感じる。其れゆえか、中には矛盾した、あるいは正確でない記述もあると感じるが、其れなりに楽しめる本、(例:後述する火葬や大伴の旅人の館の場所)とりわけ地元の人間には現地調査も簡単なのでラッキー♪

3冊の太宰府関連本を2日で一気に読み上げた。なにしろ必要ならば地元なので現地調査はいつでもいけるので気楽に読める♪ それにしても地元なのに知らないことばかり。頻繁に通る道筋の遺跡もわざわざ車を降りてみることはないので知らないことばかり。

この本も半日で読み上げたが別に内容が薄かったわけではない。それどころか色々考えさせられること、知らないことが多かった。時間がそれほどかからなかったのは沢山の写真が載っていたこともある。分量としては本の半分以上が写真。これもいい♪

道教思想の導入により、太宰府の鬼門にあたる竃門山に社殿が造設され、空海、円仁も渡海の前後に訪れ神仏混淆の象徴的拠点となる。因みに宝満山とも呼ぶが、これはこの祭神、玉依姫の神仏習合的名称「宝満大菩薩」より来る。p119  因みにこの竃門神社側に日帰り温泉がある♪

<基礎知識まとめ>
AD941の藤原純友の乱で太宰府、鴻臚館は一度消失した。p15

太宰府の発展期は7世紀後半から12世紀前半まで、最初の時期はAD663の「白村江の戦い」を契機として防衛体制の強化の必要に迫られたから。後期は大陸本土の王朝の衰退と私的貿易=通商の繁栄によるだろう。ところで高校歴史では「はくすきえの戦い」と習ったが、今は「はくそんこうの戦い」と呼ぶらしい。

政庁東側の月(つき)山は、水時計が置かれた「刻(とき)山」の訛ったものとか。ところでこの月山の麓に展示館があるが、ここに大友旅人の館があったと考えられているらしい。p27 これまで坂本神社の場所だと思っていた。理由はこの神社の脇に旅人が催したとされる「梅花の宴」にちなんだ梅園があるからだ。事実そのように記載している人もいる。p65 事実はどうなのだろう?
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「太宰府での暮らし」中で死者の埋葬法が火葬になったとの記述があるが、p31 これは私の理解と異なる。明治に入るまで大抵は土葬だったはず、火葬はごく一部の上層階級の方法だと思うが?
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宝満山には竈門山寺を始め、370もの坊が並び、300は学問を主とする衆徒方、70が行者方とされる。その道すがらには、五百羅漢や千体地蔵などが安置されたという。p132 ところが廃仏分離によりことごとく僧坊は廃棄され地蔵や菩薩は首を刎ねられ谷底に蹴落とされたという、驚異的出来事。今でも首またを刎ねられた地蔵が沢山見つかるらしい。また、明治5年には「修験宗廃止」が出され山伏は全て還俗し山を降りたらしい。p126 知らなかった!!

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