2021/6/5

歴史にifは禁物だが & 『永平寺』  お勧めの1冊

<数値目標>
https://www.duolingo.com/learn
ダイヤモンドリーグ +70XP,33027XP,四十六分钟。

https://www.youtube.com/watch?v=NYwFD0jP_Ks&list=PLrWxcegPNiyj-M05glrorpUrXekNDKejm&index=5
HSK1 #3〜#5 三十七分钟。
https://www.youtube.com/watch?v=9vuBfMx3P2s&t=782s
HKS5,〜32min, 背了半小时单词。继续努力!!

https://www.youtube.com/watch?v=9bAHmxGDF0M
看了十一分钟李姐妹频道。一共两个小时四分钟。
木曜日の分をオフ日に少し取り戻す。




『永平寺』
桜井秀雄著、曹洞宗宗務庁発行、昭和62年初版(1987年)。

図書館が開館する前に読む本がなくなったの、まだ読んだことがないと思われる本を発掘してみた。本棚にあったかなり古い本だが、本を納めるしっかりした厚手のカバーがあるので中身は綺麗な状態。30年以上前の本だが三千円もする。どのような経緯で本棚にあるのか不明。

本の半分以上はモノクロを交えた写真集でそれだけでも結構楽しめる。1日で読み終わる内容だが、いろいろ学ぶところがあった。

道元が入宋したのは勿論、彼自身の宗教的動機が一番大きかっただろうが、それ以外の環境も無視できないと思う。それは彼の生家である久我家の「承久の変」(1221年)により後鳥羽上皇が北条氏に対して起こしたクーデターの失敗により置かれた立場というものがあるみたいだ。p109 

道元についてお供がいたことも初めて知る。分っている限りにおいても、一人は帰国後、製薬を伝えたという、かなり高齢(65歳くらい)の伴。もう一人はまさに久我家に使えていたという十代末の若者、彼は尾張の瀬戸で陶祖と仰がれる加藤四郎。p110 いずれも場合も、最先端の技術を日本にもたらす為の留学に相当するだろう。現在道元禅師の功績とされるものの一部がこうしたお供の人の功績である可能性が高い。

その他、渡海した僧として建仁寺を率いていた師匠に当たる明全和尚もいた。もしかするとこの時点では道元禅師は明全和尚の付き添いの立場だったかもしれない。事実、彼は若い道元禅師(24歳)より一足先に天童寺で修業を許された。p110 その後、道元禅師が2年間の遍歴後、天童寺に戻り再会するが、既に明全和尚が重病の床に伏し、わずか一ヶ月後に42歳で他界されたとか。p114

もし、師匠筋に当たる明全和尚が修業後に帰国されていたならばどうなっていたか? おそらく道元禅師は明全和尚の付き添い僧としての待遇だったかもしれない

もちろん歴史にifは禁物だが… 因みに明全和尚の遺骨は道元禅師により建仁寺の地に戻り、境内に埋葬されたとか。p117

帰国後、『正法眼蔵』95巻のうち、半分44巻は僧団の基盤を固め、主たる活動の場となった京都の興聖寺で書かれたとのこと。p122 京都を離れ北越福井の永平寺は活動の後半部分となる。

ここでも当時の中国の禅宗仏教界をとりまく環境が語られる。当時は念仏系が増え、禅宗も各派に分裂し貴族化、官僚化が進んでいたとか。p111

こうした状況が道元の師である如浄禅師に曹洞宗の将来に対する危機感を感じさせて、その将来を外国の若者に託そうとしたのではないかと以前から考えている。同様な状況はあの空海と恵果の間でもあったはずというのが、私の個人的理解。
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