新型インフルエンザに、はじめ恐れられていたほどの破壊性がないということは不幸中の幸いというべきでしょう。
いやむしろ、そんな月並みな言い方ではなく、自然の不気味なメカニズムをそこでとどめてくれたなにものか、むしろこの地球の善意に感謝すべきことでしょう。
もしこれが鳥インフルエンザそのものであったとしたら、すでに惨憺(さんたん)たる状況に陥(おちい)っていたに違いありません。
わたしたちがどれほど全力で対応しても、感染はやはり警戒網を簡単にすりぬけて都市の中心部に侵入すること、そしていったん感染が広がり始めるともはや閉じ込めることは不可能なこと、さらに医療機関もたちまち物理的にパンク状態に陥ってしまうこと、それらの事実を今回の新型インフルエンザでわたしたちは見せつけられているのですから。
この状態でもしこのインフルエンザが、死者が毎日出るような強毒性のものであったとしたら、都市機能、ひいては国家機能も深刻なマヒ状態に陥っていたでしょう。
わたしたちの恐怖もどれほどのものになったか、想像もできません。
ひとつの大きな教訓をわたしたちは得ました。
このような新しい感染症は、あの人がかかった、この人がかかった、というような個人の問題ではもはやないということです。
民族全体を揺るがす巨大な魔物だということです。
従来の病気であれば、患者と医師の一対一の対応のなかで治癒(ちゆ)にまで持っていけば、それで治療も完結していましたが、わたしたちに免疫のない今度の感染症のような場合は、民族全体が総がかりでビールスに対処しないと、防衛ができないということです。
民族のなかでの、気配りと優しさと協力が不可欠だということです。
民族としての賢明さが問われるということです。
民族の中で、個々人の主体的な思考や判断や取り組みがいっそう必要になるということです。
責任のなすり合いなどで時間を空費するようなそんな愚行をやっている場合ではないということです。
(その点、渦中の神戸では育児や介護などの分野で市民の自発的な協力体制があちらこちらで生まれています)
日本民族が他の民族よりも抜きん出て優秀だと公言してはばからないような“裸の王様”的民族主義は、ぼくはもういたたまれなくなるくらいイヤですが、やはり民族の内部がバラバラのままでは危機を打開できません。
民族としてのきちっとした姿勢を、理性的に、的確に、愛情深く、打ち出していかねばなりません。
この危機の時代に、賢明な日本人像をつくろうじゃないですか。
さて、神戸はきょうはうす曇りで、やわらかな日差しがときどき街を満たします。
港から微風が吹いてます。

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