7/29第30回平家納経
1(新古今集、秋上 286番)
いつしかと 萩の葉向けの 片よりに そそや秋とも 風も聞こゆる(久安百首)
2(保元物語)讃岐にまだ御所も出来ておらず、仮宿にての暮らしに都を偲んで。
浜千鳥 跡は都へ かよへども 身は松山に 音をぞのみなく
☆松山=現坂出市
3都を偲んで詠んだ歌
啼けば聞く 聞けば都の 恋しきに この里過ぎよ 山ほととぎす
4(風雅和歌集1346年ごろ)
思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを
◎(遠島百首)承久の乱で隠岐国に配流された後鳥羽上皇が、
われこそは にゐじま守よ 隠岐の海の あらきなみかぜ 心してふけ
崇徳院と後鳥羽院の性格の違いが歌にも出ています。ところで当時は讃岐院と呼ばれていました。崇徳院と言う院号に改められたのは1177年のことです。
77番「せをはやみ」、後白河院は第77代天皇です。1176年から77年、その後1185年まで「方丈記」に記されている天変地異や崩御など立て続けに色々と起こりますが、それはまた後ほどと言うことで。
二条天皇は、1164年12月に生まれた順仁親王(のぶひと、六条天皇)の母の身分が低かったので、育子(むねこ)中宮の養子とします。翌年二条天皇は崩御。1歳ならずして順仁親王は天皇になります。近衛基実(もとざね村杉蝉之介)は育子の兄ですから、摂政となり取り仕切ります。この時、満22歳の若さでしたが、その翌年1166年に亡くなります。
「近衛家」は、藤原忠通の長男の藤原基実こと近衛基実(もとざね村杉蝉之介)が祖。子の基通が、京都近衛の北、室町の東の邸宅を「近衛殿」と称したことが由来。鎌倉時代に「鷹司家」(たかつかさけ)と分かれます。
「九条家」は、藤原氏北家嫡流の藤原忠通の三男である九条兼実を祖とする。藤原基経(もとつね、26番「おぐ」貞信公の父)の創建といわれる京都九条にあった九条殿に住んだ事が家名の由来。
95番「おおけ」慈円の兄である九条兼実(かねざね、基実の異母弟)の子である91番「きり」良経(よしつね)の子供の道家の子供たちが九条家、一条家、二条家と分かれて、合わせて「五摂家」と呼ばれるようになります。