8/5第31回伊豆の流人
二条天皇(冨浦智嗣とみうらさとし)は、優れた人物で「末の世の賢王におはします」と賞賛され(今鏡)、父、後白河上皇とは対照的でした。上皇との対立は解消されることなく「孝道には大いに背けり」とも言われました(源平盛衰記)。
後白河上皇は、「今様狂い」と称されるほどの遊び人であり(平治物語)、「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と崇徳上皇に酷評されていたそうです。
後白河院の親王、内親王
殷富門院(いんぶもんいん)第一皇女1147−1216
式子内親王(しきしないしんのう)第三皇女1149−1201
以仁王(もちひとおう)第三皇子1151−1180
高倉天皇(憲仁親王のりひとしんのう)第七皇子1161−1181
最初の三人の母、成子(しげこ、高倉三位)?−1177待賢門院璋子(檀れい)の姪で後白河とは従姉妹同士になります。式子内親王は89番「たまのをよ」、式子の姉の殷富門院(いんぶもんいん)に仕えていた大輔が、90番「みせばやな」を詠んでいます。
ちなみに88番「なにはえの」を詠んでいる皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)は、藤原忠通(ただみち堀部圭亮)の娘である崇徳院の中宮、聖子(きよこ皇嘉門院こうかもんいん)に仕えていた人です。
高倉天皇の母は、清盛の妻、時子の異母妹、滋子(しげこ、建春門院、成海璃子)1142−1176です。
頼盛と重盛の官位の格差は広がるばかりですが、二条天皇崩御後、後白河院派の息が吹き返すと、太宰大弐に任命され、従三位に叙せられ、平家三人目の公卿となります。普通大宰府の長官は現地には赴きませんが、頼盛は現地に滞在しており、不可解な行動が出始めます。
平治の乱1159年から平家滅亡1185年まで26年間です。平家滅亡1185年から鎌倉幕府第三代将軍実朝、93番「よのなかは」が、暗殺1219年されて源氏が滅びるまで34年間です。「日本で初の武家政権」とされていましたが、今では平氏政権に次ぐ武家政権と位置づけられているそうです。