8/26第33回清盛、50の祝宴
今回から、清盛のことを相国清盛と呼んでいますが、この職は日本にも律令制やそれに伴う文物とともに輸入され、日本の律令制度下に於ける太政官の最高職である太政大臣の唐名となった。
平清盛が「入道相国」と呼ばれたり、足利義満が京都御所の近くに立てた寺の名前が「相国寺」であるのも、歴代の徳川将軍の位牌に「正一位大相国○○院殿」と記されているのも、彼らが生前に太政大臣に就任、若しくは死後に朝廷からこの官位を贈られたからである。(ウィキぺディア丸写し)。
忠度(ただのりムロツヨシ)は、1144年に平忠盛(ただもり中井喜一)の六男として紀伊の国、熊野地方で生まれました。
平家一門と都落ちした後、都へ戻り俊成(しゅんぜい定家の父)に自分の歌が百余首おさめられた巻物を託しました。『千載和歌集』(1188年)に撰者の俊成は朝敵となった忠度の名を憚り「故郷の花」という題で詠まれた歌を一首のみ詠み人知らずとして掲載しています。
千載和歌集以降の勅撰和歌集に11首が入集。なお、『新勅撰和歌集』(1232年定家撰)以後は晴れて薩摩守忠度として掲載されています。
一ノ谷の戦い(1184年)で、源氏方の岡部忠澄と戦い41歳で討死。身に着けていた文に、「旅宿の花」という題で一首の歌が詠まれていました。
「行くれて木の下かげをやどとせば花やこよひのあるじならまし」
忠澄は忠度の菩提を弔うため、埼玉県深谷市の清心寺に供養塔を建立しています。
「さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな」
この歌が千載集に撰ばれた歌です。
「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)の「梁塵」は、名人の歌で梁の塵も動いたという故事より、すぐれた歌ということ。平安時代末期に編まれた歌謡集のことで今様(当時の流行歌)歌謡の集成。編者は後白河法皇。1180年前後の作。「あそびをせんとや〜」。
(九条兼実 千載和歌集)
帰りつる名残の空をながむればなぐさめがたき有明の月
(平忠度 新勅撰和歌集)
たのめつつ来ぬ夜つもりのうらみでもまつより外のなぐさめぞなき