1198年 為家 定家(36歳)の子誕生。
1205年 「新古今和歌集」成立。
仮名序は91番「きりぎりす」の後京極摂政前太政大臣である藤原良経(よしつね)が書きましたが定家はこれを絶賛します。その中の一文ですが、
春霞の立つ立田山に初花を思いやることから始まって、夏は妻を恋しがって鳴く神奈備山のほととぎす、秋は風に散る葛城山のもみじ、冬は富士の高嶺に雪が積もる年の暮れまで、詠まれた歌は、みな四季折々に触れて生じた感情の表白であろう。それだけではなく、高殿から遥か遠くを眺めやって国民が豊かになった時を知り、葉末の露や根元の雫に喩えて無常な人の世を悟り、道のほとりに分かれる人を慕い、地方からの旅路に都を懐かしく思い、高間山の空のかなたのように手も届かない人を恋し、長柄の橋が波に朽ちるように朽ちてしまう名を惜しむにつけ、感情が人の心の内に働き、それが言葉となって外に表れないということはない。ましてや、住吉明神は「夜や寒さ」という神詠を遣わされたし、伝教大師は根本中堂建立の際の感慨をお述べになった。このような、直接知らない古人の心をもはっきりさせ、まだ行って見たこともない遠い国のことをも知ることができるのは、ただこの歌道であるらしい。(新古今和歌集上、久保田淳(訳注)、角川ソフィア文庫より抜粋しましたので詳しくはこの本を読んでね。)
この部分を読んだ時に、これって百人一首ジャンと思ってしまいました。そうですよね、百人一首って歌道の集大成と言っても良いですねえ。この和歌集は万葉集からは採っていますが、過去の勅撰和歌集からは採ってません。しかし百人一首は、全部勅撰和歌集から採ってます。また歌題ではなくて歴史上の悲哀を根底にして大体の年代順にして、矛盾するところは見る人に疑問を投げかけてさらに深く読み込ませるようにしていると感じます。
1216年 定家、97番の「こぬひとを」を詠む。
1220年 家隆 正三位になる。
1221年 承久の変
1229年 家隆 98番の「かぜそよぐ」を詠む。
1232年 定家 権中納言になる。
1235年 定家 新勅撰和歌集。3月
宇都宮入頼綱(蓮生)に100首襖絵と共に贈る。
5月27日
家隆 従二位になる。9月
1237年 家隆 死す
1239年 隠岐の島で後鳥羽上皇崩御
1241年 為家 権大納言 2月1日
定家 死す 8月2日
1242年 後鳥羽院の諡号(しごう)を贈られる 7月8日
順徳院崩御 9月13日
1244年 公経 死す
1249年 順徳院の諡号(しごう)を贈られる
1251年 為家 続後選和歌集 99番、100番の歌が入集。
1259年 宇都宮頼綱(蓮生) 死す
頼綱(蓮生)の中院山荘は婿の為家が相続する。
1261年 1251年の時点で後鳥羽院と順徳院の歌を勅撰集に入れても勅勘もなく、百人一首関係者がすべて亡くなり、喪が明けた後に、父の定家の遺言どおり二人の歌を入れた百人一首を世に出す。
1275年 為家 死す
1313年 為家の子、為相(冷泉家の元祖)が遺産相続に勝訴。
1336年 室町幕府
え〜と、1261年だけ実証もなく私の感性だけで書きました。これでもって私の百人一首は完結したいと思ってます。ところで定家はいつ百人一首を編んだのでしょうか。1241年息子の為家が権大納言になって思い残すことはなくなり、自分の80年を振り返り、歴史を振り返り、百人秀歌はまだまだ既成概念から抜け切れてないことを悟って、自分なりの配列にした時点で、全ての歌を掌握してしまったのでしょう。
This is WAKA in 1241.
新しい文献が発見されてこれらが笑い話になることを待っています。ところで90番台の配列順について色々取りざたされますが、確かに天皇父娘で始まり、天皇父息子で終わる配列では、定家と家隆は柿本人麿と山部赤人と見なしていると解釈する人がいてもおかしくはないかもしれません。でも私は百人一首の最後の歌は、秀歌と同じく96番公経の「はなさ」と思っています。後鳥羽院が隠岐の島に配流されたのにも音信を絶やさなかった家隆を未来永劫後鳥羽院のおそばに置くために98番にしたと思いたいです。