5/27第21回保元の乱
7月10日に始まった保元の乱は、天皇方が反対派の排除に成功しましたが、宮廷の対立が武力によって解決され、数百年ぶりに死刑が執行されたことは人々に衝撃を与え、実力で敵を倒す中世という時代の到来を示すものとなりました。氏長者の藤原家はその後、近衛家と九条家に別れます。
慈円は『愚管抄』においてこの乱が「武者の世」の始まりであり、歴史の転換点だったと論じています。また、慈円自身の父である藤原忠通(ただみち堀部圭亮) が父(慈円にとっては祖父)藤原忠実(ただざね国村隼)と不仲であった事を暗に批判したりしてます。慈円は10歳の時に忠通が亡くなりましたので出家しました。
『愚管抄』(ぐかんしょう)とは、天台宗僧侶の慈円(95番おおけ)著による、鎌倉時代初期の史論書。全7巻。承久の乱の直前、朝廷と幕府の緊張が高まった時期の承久2年(1220年)頃に後鳥羽院を諌めるために書いたものです。
23日、崇徳上皇は讃岐に配流されました。天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路配流以来、およそ400年ぶりの出来事でした。武士に対する処罰は厳しく、薬子の変(810年)を最後に公的には行われていなかった死刑が復活し、28日に忠正(ただまさ豊原功補)が、30日に為義(ためよし小日向文世)が一族もろとも斬首されました。
死刑の復活には疑問の声も上がりましたが(『愚管抄』)、『法曹類林』を著すほどの法知識を持った信西(安部サダヲ)の裁断に反論できる者はいませんでした。
法曹類林(ほうそうるいりん)は平安時代後期に成立した法律書。信西の編著。法令集と判例集からなり、全230巻。現存は4巻のみ。
源為朝(ためとも橋本さとし)は、その武勇を惜しまれて、伊豆に島流しになりますが、そこでも暴れて最後(1170年か1177年)は自害します。藤原忠実(ただざね国村隼)は、摂関家を守る為に藤原頼長(よりなが山本耕史) を見捨てます。藤原忠通(ただみち堀部圭亮)は、なんとか藤原忠実を守り蟄居することですみ1162年に亡くなります。
今後は、新興公卿の藤原成親(なりちか吉沢悠)、藤原師光(もろみつ加藤虎ノ介西光)、藤原信頼(のぶより塚地武雅)たちと信西の勢力争い、後白河天皇は2年後上皇にされ、得子の養子になっていた二条天皇(冨浦智嗣とみうらさとし)の即位にともない、上皇派と天皇派での勢力争い、平氏と源氏の勢力争いと摂関家の没落とともに世の中は混沌としていきます。そこに崇徳院の死後1164年から怨念が絡んできます。ちなみに藤原忠通(ただみち堀部圭亮)も同じ1164年に亡くなります。その前に1160年の平治の乱がありますね。