7/1第26回平治の乱
ドラマでは、信頼(のぶより塚地武雅)ではなくて、義朝が源義平(よしひら、波岡一喜)の清盛討伐を止めていますね。
重盛(しげもり窪田正孝)は叔父の頼盛(よりもり西島隆弘)とともに出陣し、「年号は平治、都は平安、我らは平氏、三つ同じ(平)だ、ならば敵を平らげよう」と味方の士気を鼓舞し、源義平と御所の右近の橘・左近の桜の間で激戦を繰り広げ…と「平治物語」に書かれてあるのですが、実際は内裏をはなれて六波羅で戦っているので、この話の真偽は不明です。
重盛の正室は、藤原成親(なりちか吉沢悠)の妹の経子(つねこ高橋愛)ですので、おかげで成親は乱の後も助かります。後々、重盛の第一子(経子ではない母)は、成親の娘と結婚したりして、成親家とは強い繋がりで結ばれていくのですが、その事も含めて、実の母(明子)の後ろ盾がないこと、同母弟の基盛(もともり渡部豪太)が数年後に23歳で亡くなるなどのため孤立化していきます。
順調に昇進するのですが、一門の中では難しい立場に置かれていくことになります。成家失脚後(1177年)は、生きる気力を無くして、1179年に胃潰瘍で亡くなります。忠ならんと欲すれば孝なず......、清盛と後白河院の間に立って調整役に努め、心身ともにすり減らした42年でした。
藤原忠通(ただみち堀部圭亮)は、美福門院得子(なりこ松雪泰子)と一緒に並んで、苦々しく藤原信頼(のぶより塚地武雅)を見つめていましたが、権力には勝てず、信頼の妹を長男の近衛基実(もとざね1143−1166)、(1158年には16歳の若さで二条天皇の関白にまで栄進し氏長者になってます)の妻として迎えています。
二人の間の子供が摂関家継承者の基通(もとみち1160年生)ですが、謀反人の甥としての影が付きまといます。ちなみに清盛は1164年に忠通が亡くなると、22歳の基実に9歳の娘、盛子(母不明)を嫁がせています。このことも後白河院との攻防の一つになります。
しかし、まずは来週の「宿命の対決」ですね。