8/19第32回百日の太政大臣
摂関家の藤原忠通(ただみち堀部圭亮)の死後、跡継ぎの四男、近衛基実(もとざね村杉蝉之介)は1166年に23歳の若さで亡くなります。
五男、松殿基房(もとふさ細井茂樹)1145−1231は、有識故実に精通しており、基実の息子、基通(もとみち) 1160−1233が6歳と幼すぎたので、摂関家を一時継ぎます。
六男、九条兼実(かねざね)1149−1207と三人それぞれ母親が違い、大変仲が悪かったようです。95番の慈円は兼実と同母兄弟です。
基通(もとみち)は、盛子が養母となり、と言ってもこの時11歳です。後に清盛の6女、完子を娶ります。平家都落ちの時には同行を拒否し、後に後鳥羽天皇の時に返り咲き摂政となります。壇ノ浦で命を長らえた完子は建礼門院と一緒に京に送られ出家したようです。
松殿基房(もとふさ細井茂樹)は、清盛と仲が悪く、これからいろいろありますが後に木曽義仲と手を組み、義仲が義経に滅ばされると実権をなくし家は衰退します。しかし最後まで有識故実に精通した人として尊ばれます。
九条兼実、息子の良経91番「きり」は、定家の良きパトロンでした。
藤原邦綱(くにつな岡本信人)1122−1181は、藤原北家良門流の系統に属する下級官人でしたが、藤原忠通(ただみち)の家司として頭角を現し、1165年に破格のともいえる蔵人頭(天皇との繋ぎ役)になります。4人の娘は、各天皇の乳母となり、盛子の後見も努めていました。
権大納言まで昇進しましたが、良門流の系統で公卿に列したのは、平安時代前期の兼輔27番「みかの」以来のことです。兼輔のひ孫に紫式部がおり、さらに父の為時から5代下がって邦綱がいます。清盛が亡くなった場所は、平盛国(もりくに上川隆也)邸ではなくて、邦綱の父、右馬権助盛国邸とする説もあります。
清盛は光源氏と同等に考えていた節があり、福原も明石の巻を意識していたと言われています。明石の入道と同じく清盛は娘(徳子)を入内させて天皇の外祖父になりました。
ところで藤原定家は1162年生まれですからこの時4歳です。また常盤御前(武井咲)は一条長成に嫁しており、1163年に能成(よしなり)を儲けています。義経はすでに鞍馬寺に預けられています。