11/25第46回頼朝挙兵
源行家(ゆきいえ江良潤)は、4月から5月にかけて東国を廻りましたが、5月初めには計画は露見してしまいました。
1180年5月8月夜から知盛(とももり小柳友)は、「万死に一生」の重病となり、清盛が福原から上洛しました。
兄の故重盛(しげもり窪田正孝)や宗盛(むねもり石黒秀雄)は、後白河院(松田翔太)に対して優柔不断であったため、清盛は知盛に期待をかけたらしく「入道相国最愛の息子」と呼ばれたそうです。
5月10日、清盛が上洛して武士が洛中に充満しました。
14日、後白河院が武士300騎の警護により八条坊門烏丸邸にうつりました。これは以仁王(もちひとおう柿澤勇人)の謀叛が発覚したことによるものでした。
16日、以仁王は園城寺に逃げ込みますが、平氏も大寺社相手に容易に手が出せません。
5月21日、平頼盛、教盛、経盛(以上、清盛の弟)、知盛、重衡(以上、清盛の子)、維盛、資盛、清経(以上、重盛の子)、そして源頼政を大将とする園城寺攻撃の編成が定められました。
この時点でもまだ頼政の関与は露見していませんでした。その夜、頼政は自邸を焼き、50余騎を率いて園城寺に入り、以仁王と合流しました。
25日夜、頼政と以仁王は1000余騎を率いて園城寺を脱出し、南都興福寺へ向かいましたが、夜間の行軍に疲れた以仁王は幾度も落馬し、やむなく宇治平等院で休息を取ることになりました。
26日、宇治川を挟んで両軍は対峙しますが、渡河を許してしまい、頼政は宇治橋を捨てて平等院まで退き、以仁王を逃そうと防戦しました。
以仁王は30騎に守られて辛うじて平等院から脱出しましたが、軍勢に追いつかれ、山城国相楽郡光明山鳥居の前で、敵の矢に当たって落馬したところを討ち取られました。
その後しばらくの間、誰も以仁王を見たことがなかったので、以仁王の生存説が噂され、またそれが反平氏運動に利用されることとなりました。
以仁王の挙兵は短期間で鎮圧されますが、その背後には八条院(佐藤仁美)の存在があり、後白河院と密接な関係にある園城寺、関白配流(松殿基房もとふさ細井茂樹が大宰府に送られたこと)に反発する興福寺も与同したことは、成立したばかりの高倉院政にとって大きな脅威となりました。
★基房(よしふさ細井茂樹)は、大宰府へ行く途中備前国で出家する事でようやく同地滞在を許されました。
11月20日(1180年)、富士川の戦いがあります。(12/2第47回宿命の敗北)
12月11日、園城寺と興福寺は再び平氏への反抗の動きを見せ、その結果、堂塔などの宗教的要素の濃い部分には手を触れないことを条件として日本史上最初の仏教寺院への本格的武力行使となる園城寺攻撃が行われました。
平氏を中心とした官軍は攻撃に慎重を帰し、金堂に火が燃え移った際には戦闘を中断して鎮火に努めたといいます【『玉葉』・『山塊記』12月12日条】。
12月28日、平重衡らの兵によって興福寺他南都の寺院が焼き討ちにあっています(ただし、これは連絡ミスによる失火と考えられています(南都焼討))。
その前に、「以仁王の挙兵」の後、
6月2日、清盛は敵対勢力に囲まれて地勢的に不利な京都を放棄し、平氏の本拠地・福原への行幸を強行します。後白河院も強制的に同行させられ、福原の平教盛邸に入りました。
福原での新都建設は準備不足のため難航し、貴族だけでなく平氏一門・高倉上皇・延暦寺からも反対の声が上がりました。
そして11月の富士川の戦いの大敗で軍事情勢が極度に悪化したことから、清盛も還都に同意せざるを得なりました。
11月23日に福原を出発した一行は、26日に京都に到着しました。
30日、東国逆乱についての公卿議定が開かれ、その席上で藤原長方が後白河院政再開と松殿基房の召還を主張しました。
12月16日、基房(よしふさ細井茂樹)が配流先の備前国から帰京します。
この時期、高倉上皇の病状が、起き上がることも出来ないほど悪化していました。高倉院が崩御すれば幼児の安徳天皇が政務を執れない以上、後白河院の院政再開しか道は残されていなかったことになります。
ドラマもあと4回を残すだけとなりましたが、木曽義仲は登場しないそうです。通常最終回は面白くないのですが、今回ばかりは、どのような終わり方をするのか興味津々です。