10/28第42回鹿ケ谷の陰謀
1177年6月
後白河院(松田翔太)、西光(加藤虎ノ介)、成親(吉沢悠)たちが、鹿ケ谷にて平家打倒の密議をしている時に、俊寛(法勝寺執行)、平康頼(やすより)たちがいましたが、その他に藤原成経(なりつね)もいました。
藤原成経(なりつね)は、成親(なりちか吉沢悠)の息子です。妻は、平 教盛( のりもり鈴之介)の娘ですから教盛は、兄の清盛に必死に願い出て一時は教盛宅にお預かりとなります。
平康頼(やすより)は、平頼盛(よりもり西島隆弘)の息子保盛(この名前は、第35回で定家との関係のお話をしましたね)の家人になっており、保盛が尾張国の国司になった時に、目代として派遣されてます。
尾張国知多郡野間の荘には平治の乱で敗走の途中に非業の死を遂げた源義朝(よしとも玉木宏)の墓がありましたが、誰も顧みる者も無く荒れるに任せていました。
康頼はこの敵将の墓を修理して堂を立てたり、その保護のために水田を寄贈したりしました。
そのうわさは京にも聞こえ後白河院の耳にも達して、近習に取り立てていました。清盛をはじめ平家一門からも武士の鑑として高評判でした。
しかし、陰謀が発覚後、俊寛(法勝寺執行)、平康頼(やすより)、藤原成経(なりつね)の3人は薩摩国鬼界ヶ島に流されました。
教盛の嘆願もあって、翌年、中宮徳子の安産祈願の大赦が出され、康頼(やすより)と成経(なりつね)は、赦免され京へ戻ることができました。しかし、この時、俊寛のみは許されずに島にとどまり悲惨な死を遂げました。
1177年7月29日
天下の物騒は保元の乱の怨霊によるものとされ、鎮魂のために讃岐院の院号を崇徳院(すとくいん井浦新)に改め、藤原頼長(よりなが山本耕史)には太政大臣正一位が贈られました。
1177は、11番と77番に分けます。11番「わたのはら やそしまかけて…」は配流の時の歌、77番「せをはやみ いわにせかるる…」は言わずと知れた崇徳院の歌ですね。