11/11第44回そこからの眺め
清盛と一緒に厳島神社に行った花山院忠雅(ただまさ友吉鶴心)は、幼少時に父を亡くし、母方の叔父藤原成家(なりいえ佐藤二朗)に引き取られて育ちます。治天である鳥羽院第一の寵臣の家成の引き立てもあり、院近臣として順調に出世を重ねます。成家の娘を妻にし、息子の兼雅(かねまさ)は清盛の娘を妻にしていました。
1178年
11月、中宮・徳子(二階堂ふみ)が高倉天皇の第一皇子を出産。
12月、親王宣旨が下されて言仁(ときひと)と命名され、15日、立太子。
皇太子の後見人・東宮傅(とうぐうのふ)は左大臣・藤原経宗(つねむね有薗芳記)が任じられ、春宮坊の職員には、春宮大夫・平宗盛(むねもり石黒秀雄)、権大夫・花山院兼雅(かねまさ、忠雅の長男)、亮・平重衡(しげひら辻本祐樹)、権亮・平維盛(これもり井之脇海)と一門と親平氏公卿で固められた。乳母は花山院忠雅の娘です。
1179年
3月、平重盛(しげもり窪田正孝)は病の悪化で内大臣を辞任。
6月、清盛の娘である白河殿盛子(八木のぞみ)が死去。
7月、重盛が死去。
10月、1166年以来の重盛の知行国が没収されてしまう。関白・松殿基房(もとふさ細井茂樹)の子で8歳の師家(もろいえ阿久津秀寿)が20歳の近衛基通(もとみち永島柊吾)を差し置いて権中納言になる。
11月、豊明節会の日に清盛は数千騎の大軍を擁して福原から上洛、八条殿に入った。
15日、基房・師家が解官され、正二位に叙された基通が関白・内大臣・氏長者に任命された
16日、天台座主に親平氏派の明雲(みょううん、腹筋 善之介)が復帰。
17日、太政大臣・藤原師長(もろなが(頼長よりなが山本耕史))の息子)以下39名(公卿8名、殿上人・受領・検非違使など31名)が解官される。この中には一門の平頼盛(よりもり西島隆弘)、縁戚の花山院兼雅(忠雅の息子)も含まれていた。
18日、基房(もとふさ細井茂樹)は大宰権帥に左遷の上で配流。
20日、後白河は清盛の指示で鳥羽殿に移された。信西の子(成範・脩範・静憲)と女房以外は出入りを許されず幽閉状態となり、後白河院政は停止された。
後白河の第三皇子である以仁王(もちひとおう柿澤勇人)も所領没収の憂き目にあい、このことが以仁王の挙兵の直接的な原因となった。
平氏の知行国はクーデター前の17ヶ国から32ヶ国になり、日本の地行国の半分が平家のものになった。
後白河を幽閉して政治の実権を握ったことは、多くの反対勢力を生み出した。関白・基房の配流に反発する興福寺、後白河と密接なつながりをもつ園城寺。
さらに新しく平氏の知行国となった国では、国司と国内武士の対立が巻き起こった。特に、この時に交替した上総・相模では有力在庁の上総広常・三浦義明が平氏の目代から圧迫を受け、源頼朝の挙兵に積極的に加わる要因となった。中央で一掃された対立は地方で激化することになる。
来週のタイトル、「以仁王の令旨」(もちひとおうのりょうじ」ですが、令旨とは、皇太子、三宮、親王および王・女院の命令を伝える文書。(広辞苑)。祇王と仏御前(木村多江)の話も出てくるようです。(平家物語第一巻 6「祇王」)