私は強迫性障害だった時、
「(家族に)愛されたい」と良く思っていました。
自分はそれまでは、それなりに愛してもらっていると感じていたのですが、
「なんでそんな酷い事いうの?」
そんな毎日の連続だったので、それまでの愛は幻想で 条件付きの愛だったんだと(=具体的には、私がいつも健康でエリートコースを歩み続けているという母の期待に応える事)、感じとり どん底に突き落とされた感じだったのです。
たぶんね、私が家族をものすごく強迫の事で、巻き込む人だったら このようには、あまり思わなかったのかもしれないのですが、それが皆無に等しい人だったので、
なんで ただただ一人で苦しんでいる娘に対し、「毎日気違い、頭おかしい」と言うのか・・・つらくてたまらなかったのです。
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それでね、最近思ったのですが、私は 当時愛されたいと切に願っていたのですが(これは、強迫の どうにもならない症状のつらさを理解されたいという気持ちでもあります)
今考えると、´家族の愛´って とてもある意味危険なんですよね。
愛が強すぎて、それが愛憎になったり、共依存になったり、そしてそれが巻き込みに繋がったり・・・・・はたまた家庭内暴力に発展したり(この裏には、退行や甘えがあるのかな?)
だから、家族は愛を持つ事は大切なのだけど 親切である事がもっと大切なのかな?と思ったわけです。
親切って 強迫性障害に対するつらさの共感がなかったら 決して出来ないものだと思うから・・・・
ああ でもこの親切は、症状の応援の親切であったらいけないよね。
しかし この強迫性障害という病気 この病気ほど 周りの人たちに親切にしてもらう事が少ない病気はないよね。
「大丈夫?」
という言葉どころか、暴言を吐かれてしまう事が多いのですから・・・
・・・・・・・・・
もっと何か書こうかと思いましたが、時間がなくなってきたので、今日はこのへんにしておきます。
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