ロタールら3人の兄は、手中に収まるはずの領土が削減されたことに不満を募らせた。830年最初の反乱が始まった。ロタールの顧問となっていた祖父大帝の従兄弟ヴァラは、敬虔帝の妃ユーディトとセプティマニア辺境伯ベルナトの二人は不義密通の関係にあり、末子カールは二人の子であると主張した。ロタールに呼応して、次男アクィテーヌ王ピピンと三男バイエルンのルートヴィヒも兵を上げた。ピピンは、ガスコーニュの軍を率いて進軍し、ブルターニュからの遠征の帰路にあった父敬虔帝を囲み捕らえ、妃ユーディトをポワティエに投獄した。
セプティマニア辺境伯ベルナトは、セプティマニアに逃れた。リヨン大司教アゴバルト(Agobard)ら有力聖職者も、帝国の再分割に反対して、反乱軍を支持した。こうして、敬虔帝は、カールの3人の兄によって、廃位させられた。ところが、翌831年敬虔帝は次男ピピンと三男ルートヴィヒを領地を条件に翻意させると、帝位に復帰、ロタールは特赦されたが、辱められて、イタリアへ追放された。次男ピピンと三男ルートヴィヒは赦された。ベルナトの名誉は回復されなかった。帝位に復帰した敬虔帝ルートヴィヒ1世は、性懲りもなく末子カールにセプティマニアを与えた。
832年には反乱の第2弾が再び始まった。復帰した父敬虔帝から領地を思うように得られなかった次男のピピンが不満を抱き再び反抗したのだ。敬虔帝は、アクィテーヌに進軍するが、三男ルートヴィヒがバイエルンで反乱を起こすと直ちに兵を引き揚げたため、ピピンは、リモージュと近隣の帝国領域を獲得した。敬虔帝は、Jonacで、カールのアクィテーヌ王即位を宣言し、ピピンから王位を取り上げ、帝国の残りの部分をロタールに戻した。
ロタールは、まだ、2回目の反乱には参加していなかったが、ロタールの顧問となっていたミラノ大司教Angilbert IIの暗躍によって、三人の兄による同盟が復活した。二人の兄は、弟ルートヴィヒに、異母弟カールの領地であるアレマニアを与えた。833年ロタールが反乱に加わると、ランス大司教エボー(Ebbo)の助けを借りて、父ルートヴィヒ敬虔帝を再び追放した。しかし、その後行われた兄弟間の取引は決裂、更にロタールも病にかかると834年敬虔帝ルートヴィヒ1世は再び復位を果たした。敬虔帝は、今回も次男ピピンと三男ルートヴィヒを赦し、イタリアを除いてロタールから全てを奪い、残りをカールに与えた。
837年敬虔帝は、末子カールをアレマニア、ブルグントそして三男ルートヴィヒの領地の一部を加えた王として正式に戴冠した。ルートヴィヒは直ちに反乱を起こした。敬虔帝のカールへの傾倒は限度がなかった。838年、次男アクィテーヌ王ピピンが死ぬと、敬虔帝は、カールにアクィテーヌの王位を継がせた。しかし、アクィテーヌの貴族達は、ピピンの子ピピン2世を支持した。敬虔帝がアクィテーヌに侵攻しようとしたとき、最後の反乱が勃発した。839年三男ルートヴィヒは、アレマニアに侵攻し、アクィテーヌ王ピピン2世とガスコーニュ軍はロワールで敬虔帝と戦い、デーン人がフリジア諸島の海岸を襲った。
ロタールは、遺産の再分割と引きかえに、ウォルムスで父ルートヴィヒ敬虔帝への支持を誓った。敬虔帝は、帝国を東西に分け、ロタールにどちらを継ぐか選択させ、ロタールがイタリアを含む東部を選ぶと、敬虔帝は、直ちにアクィテーヌを征服し、840年貴族と聖職者にカールを王として認めさせ、三男ルートヴィヒはバイエルンを取り上げられ、パンノイア辺境伯に遷された。

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