840年に敬虔帝ルートヴィヒ1世が没すると、領土を巡る兄弟の対立は頂点を迎えた。「カールの戴冠」によって復興した「西ローマ帝国」は、宗教的権威の中心ローマと、政治的権力の中心アーヘンという、いわば二つの中心を持つ帝国であった。ロタールは、そのローマとアーヘンを結ぶライン川、モーゼル川流域などの支配を強化し、単独王を図ったことから、兄弟同士の激しい抗争をもたらすこととなった。
※カロリング帝国は、もともとライン川、モーゼル川流域のアウストラシア豪族の連合政権
840年、まず、ロタールは甥のピピン2世と結んで、末弟カールの領地であるロワール渓谷を攻めた。ブルグントの諸侯は、カールにつくか、ロタールにつくかで二分された。841年5月カールに忠誠を誓うブルグント軍と弟ルートヴィヒの軍隊がシャロン=シュル=マルヌで合流、6月ロタールとピピン2世がオセールに集結した。
6月25日オセール近郊のフォントノワで、兄弟同士の熾烈な戦闘が展開され、多くの戦士たちが命を失った。当初は、ロタールとピピン2世の側が優勢だったが、カールを支持するプロヴァンス伯グェラン(カール大帝の従兄弟で伝説的英雄聖ギョームの息と言われる)が参戦すると、形勢は逆転した。ピピン2世がカールを押し戻す一方、ロタールはルートヴィヒに押し戻され、セプティマニア辺境伯ベルナト(聖ギョームの息でカールの命によりセプティマニア辺境伯に復帰していた)がカール側に遅れて参戦すると、一気にカールとルートヴィヒの勝利へ雪崩をうった。
また、この戦争は10万以上の軍勢で戦った大規模なものともされ、死者は4万人程度ともいわれる。そのため、この争いでカロリング帝国が疲弊し、ノルマン人の侵攻を容易にしたとも考えられている。
まもなくカールとルートヴィヒは、ストラスブールで、互いに協力し合う誓約を交わした。これが、842年の「ストラスブールの宣誓」と称される。
※ストラスブールの宣誓
フランク族の歴史家ニタールが残した『ルイ敬虔王の息子たちの歴史』("Histoire des fils de Louis le Pieux" )によると、両王はラテン語ではなく相手国の言語と自国の言語を用いて兵の前で宣言を行なった。これは、この頃までにカロリング帝国が東西に分裂したという証拠だと考えられてきた。
こうして、ロタールは弟ルートヴィヒ、異母弟カールとの妥協を余儀なくされ、842年にブルグント(ブルゴーニュ)のマコンで和平が成立した。その後、領土分割などをめぐっての数度の協議を経て、843年にヴェルダンで最終的な承認がなされた。
ヴェルダン条約
http://www.pitt.edu/~medart/image/france/france-l-to-z/mapsfrance/sf056fra.jpg
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Partage_de_l%27Empire_carolingien_au_Trait%C3%A9_de_Verdun_en_843.JPG
ロタールは中部フランク及びイタリア北部、それに西ローマ帝国皇帝の位を獲得。皇帝ロタール1世(西ローマ共同皇帝;在817-840年、単独皇帝;在840-855年、中部フランク王;在840- 855年)を名乗るが、宗主権は失った。またルートヴィヒは東フランク王国を獲得して国王ルートヴィヒ2世(ドイツ人王、ルイ2世;位843-876年)を、カールは西フランク王国を獲得して国王シャルル2世(禿頭王、カール2世;在843-877年、西フランク王としてはシャルル1世)を名乗った。
このうち中部フランクは、ロタールの名を冠するロタリンギアやアルザス、ブルグント、プロヴァンス、イタリア(ロンバルディア)から成る。領土が入り組んだ形になったのはローマとアーヘンという重要拠点を中部フランク王国が取得したからだが、その諸民族を統率するべき歴史的、民族的、あるいは地理的一体性もない、人為的な建国で、維持は困難であった。単独皇帝で中部フランク王となったロタール1世は、ローマのあるイタリアを長子ロドヴィコ(ルイ)にまかせ、本人はフランク王国の政治的中心であったアーヘンのあるロタリンギアの統治に専念した。なお、仏語の「ロレーヌ(Lorraine)」、独語の「ロートリンゲン(Lothringen)」は、ロタリンギアに由来する。

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