中部フランク王国は855年のロタール1世の死に伴い、その3人の息子に分割された。長男ロドヴィコ2世(ルイ2世、ルートヴィヒ2世)は西ローマ皇帝とイタリア王(在位855-875年)、次男ロタール2世はロタリンギア王(在位855年-869年)、末子カール(シャルル)はプロヴァンス王(在位855-863年)をそれぞれ継承した。
863年に幼少だったカール(シャルル)が死ぬと、遺領は二人の兄のロドヴィコ2世とロタール2世によって南北に分割された。さらに869年ロタール2世が死ぬと、その遺領は、叔父である東フランク王ルートヴィヒ2世(ドイツ人王)と西フランク王シャルル2世(禿頭王)によって東西に分割された。このとき、ロタール1世の最後の遺児となったイタリア王ロドヴィコ2世は南イタリアに遠征中であったため、完全に無視される形となった。この再分割を取り決めたのが870年のメルセン条約である。
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西フランク王国シャルル禿頭王は、875年イタリア王で西ローマ皇帝ロドヴィコ2世が死ぬとすかさずイタリアに侵攻して同地を併合し、カール2世として西ローマ皇帝に即位した。877年にその西ローマ皇帝カール2世(西フランク王シャルル2世)が死ぬと、西フランク王国は子のルイ2世吃音王が継いだ。ところが、ルイ2世は病弱だったため、父シャルル2世の没後わずか2年で死去した。彼の死後、西フランク王国はルイ3世(在位879-882年)とカルロマン(在位879-884年)の2人の息子がともに王位に即き、分割統治することになった。その正当性に疑問も投げかけられたものの2人の即位は承認された。この混乱に乗じて879年 シャルル2世の義兄弟であるプロヴァンス公ボゾーがプロヴァンス王を称し独立を宣言した。
東フランク王国では、876年ドイツ人王ルートヴィヒ2世が没すると、3人の息子カールマン(バイエルン王在位876-880年)、ルートヴィヒ3世(ザクセン王879-882年)、カール3世(アレマニア王876-887年)によって分割された。長男カールマンは、バイエルン王を継承し、さらに、西フランク王シャルル2世の死去を受け、東フランクの君主として初めて「イタリア王」(在879-879年)の称号も獲得したが、879年、病を煩い身体が不自由になるとアレマニア王カール3世にイタリア王位を、ザクセン王ルートヴィヒ3世にバイエルン王位を譲った。

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