879年、東フランクのザクセン王ルートヴィヒ3世は、西フランク王を継承することとなったルイ3世とカルロマンとの間で戦いの準備を整えていたが、プロヴァンス公ボゾーの独立やバイキングの襲来が再開されたことから、西フランク王両王への中立とカロリング家として共同戦線とることを条件に、ネウストリアを相続したルイ3世がロタリンギア西部を放棄することで、ルートヴィヒ1世の死後から続いていたカロリング家の領土相続争いが収拾した。これが880年西フランク王国と東フランク王国との間で結ばれたリブモント条約で、これにより、メルセン条約で東西フランクに分割されたロタリンギアは、全域が東フランク王国領となった。
882年ルイ3世が、884年カルロマンが相次いで事故死すると、西フランク王位は東フランク王であったカール3世(肥満王、東フランク王;在882-887年)がシャルル2世(西フランク王;在884-887年)として継承した。
カール3世は、876年父ルートヴィヒ2世を継いでアレマニアを継承、879年兄カールマンからイタリア王を継承、880年にはリブモント条約によってロタリンギア北東部を領有し、881年には皇帝カール2世(西フランク王シャルル2世)の後を嗣いで西ローマ皇帝に戴冠、882年には死去したルートヴィヒ3世の遺領を相続し、東フランク全土を手中に収めた。さらに884年、西フランク王カルロマンの死去を受けて西フランク王シャルル2世として即位した。これにより、カール3世はフランク王国の統一を達成した。
カール3世の権威の上昇には、西ヨーロッパ全体の復興の可能性があった。しかし彼にはその才能も熱心さもなく、病を患っていた。サラセン人(イスラム勢力)の侵入に対してイタリア遠征を繰り返したものの失敗に終わり、886年にはパリでヴァイキングに対して金銭を支払って講和を結んだ。
これによって、カール3世はますます弱腰で無能であるとみなされるようになり、887年11月には甥のアルヌルフ(兄バイエルン王カールマンの庶子)がカランタニア(現スロベニア)を拠点に反乱を起こすに至った。しかしカール3世(シャルル肥満王)はナイディンゲンに逃れただけで何の策もうたず、2ヵ月後の888年1月13日に死去した。
カール3世の没後、アルヌルフが東フランクとロタリンギアを、ヴァイキングとの戦いに功があったパリ伯ウードが西フランクを、ルートヴィヒ敬虔帝の孫のフリウリ公ベレンガリオ1世がイタリアを、ヴェルフの孫コンラート2世の子ルドルフ1世がユラ(上)・ブルグントを、プロヴァンス王ボゾーの息子で西ローマ皇帝ロドヴィコ2世(ルイ2世)の孫ルイ3世(盲目王)がプロヴァンス(キスユラ(下)・ブルグント)をそれぞれ継承した。そしてこれより後、フランク王国が三度統一されることはなかった。

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