カロリング朝を代表する君主は、もちろん、ピピン3世(短身王)の息子カール1世(大帝、シャルルマーニュ)である。800年にローマで「西ローマ皇帝」として戴冠することにより、西方における皇帝権の復活者となった。「ヨーロッパ」という空間的・文化的概念は、彼の治世に初めて実体を備えた生きた概念として誕生した。
父のあだ名とは対照的に巨漢の持ち主で、野心と熱気に溢れたこの人物は、ほぼ70年に及ぶ生涯の大半を戦塵のなかで過ごした。その軍征の年表を一覧するだけで、ヨーロッパの凡庸な支配者は色を失うであろう。南はピレネー山脈の彼方のスペイン、東はハンガリーの平原、北はデンマークの湿原と広大な領域をほぼ毎年のように転戦している。これを可能にしたのが、専門の訓練を積んだ職業戦士が構成する封臣軍の高速騎兵隊であった。公の権力という概念は決して消滅することはなかったが、主従誓約に基づく封建的絆での再編成が着実に社会に浸透しつつあった。
ある専門の歴史家によれば、カール大帝の帝国は、空間的に三層に分けられる。中核にあるのは「フランキア」と称されるセーヌ川からライン川に挟まれた地帯。その外側にフランク人に服属した部族の領域が取り囲むように展開している。これは「レグナ」と呼ばれる地帯である。もっとも外側に位置しているのが周辺民族のスラヴ人やイスラム教徒の領域であり、周縁地帯と形容される空間である。南はピレネー山脈、東はエルベ川がその境であった。
カール大帝の実効的な支配の対象と考えたのはレグナ領域までで、周縁への遠征はいわばその安寧を確保するための副次的な意味しかもっていない。
カール大帝は、大小とりまぜておよそ500にのぼる伯管轄区に、多くのフランク人封臣層を起用して伯として派遣している。この統治手法は、メロヴィング朝がとった地方支配のそれとは大きく異なっており、その実現のほどはともかく、カロリング朝は地方を直接掌握しようと望んだのである。地方に派遣された国王封臣のなかの有力な人々は「帝国貴族層」と呼ばれ、やがて中世ヨーロッパの名門貴族の源流となっていく。
以上 参考・出典 フランス史 世界各国史12 福井憲彦編 山川出版社
このように、メロヴィング朝の分国体制と異なり、カール大帝のカロリング帝国は、フランキアを中核にその周囲にレグナ、さらにその周囲に周縁地帯と形容される空間が同心円上に成立していた。その中心になるのが、カール大帝によって建設された帝都アーヘンであった。これにより、ネウストリアはパリより以西のセーヌ川とロワール川に挟まれた地域に限定され、ネウストリア王の首領たる義務は、ブルトン人に対してフランク王国の宗主国たる地位を守ることにかわった。ブルグントは、ローヌ川の支流ソーヌ川以西がアクィタニア(アキテーヌ)に割譲され、いわゆるブルゴーニュ地方が誕生した。
ところが、843年のヴェルダン条約によって、カロリング帝国の中核である「フランキア」が、セーヌ川流域の西フランキアとライン川・モーゼル川流域の中部フランキア、さらにマイン川流域の東フランキアに分割された。このフランキアの分割は、カロリング家の弱体化を招き、カロリング帝国そのものの解体へと繋がっていったのである。やがて、セーヌ川流域の西フランキアはフランスとなり、中部フランキアはカール大帝の曾孫のロタール2世が支配したことからロタリンギアと呼ばれるようになった。東フランキアは、フランケンとなった。
カロリング帝国
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http://en.wikipedia.org/wiki/File:Carolingian_Empire_map_1895.jpg

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