(如月壱拾九日) チベットその後  政治

中国政府がチベット関連ニュースに対して、国際世論を気にしてか、やや緩和したように見えるがこれは何も変わっていない。そもそも中国政府が「受身的に」対応しているのではない。「警察側は銃を発砲していない」などと言い張っていたことからしても、またチベットにおけるデモは毎年3月10日前後に行なわれてきたことからしても、むしろ中国政府が挑発したのであり、チベットの活動家を炙り出したと見るべきである。

しかし、他国は他民族を弾圧あるいは虐殺したことが無いのかと問われると、誰も何もいえないのが世界の現実である。事態が大規模化すると、一方的な弾圧というより「紛争」や「内紛」とされてしまい、10万人を殺した対イラク戦争も「大虐殺」ではなく、「米兵の犠牲者がついに4,000人を突破」(日米のマスコミ各社の報道)となってしまうのである。

なぜ中国はチベットや同じく批判を浴びているスーダンのダルフールを弾圧しているのか。それは国際的非難より経済的メリットのほうが上回ると認識しているからである。このような理屈は1990年代半ばぐらいまでは間違いとされていなかったし、1945年までは正義とされていた。弱くて資源のある地域を押さえることはそういうことだったはずである。

したがって今回のチベットの解決は、中国政府が「このままでは国益に沿わない」と自ら判断できるように仕向けるしかないのである。世界には今なお多くの弾圧や虐殺があり、他民族や異教徒による差別と暴力がある。中国以外にもあるということで、チベット問題を軽視するつもりは全く無いが、それを辞めさせるだけの正義を持っている国家はどこにもない。

基本的には、自らの問題に自分たちが立ち上がることと、周囲の力を借りながら為政者に「それを続けるのは得策ではない」と思わせることしか圧政に対する解決策はない。ただ、日本人としても先進国と云われ続けるためには、我々自身が自分たちの問題として立ち向かい、そして怒りを忘れないことが必要である。

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