(睦月廿壱日) 死生観  

久しぶりに東大阪の中小企業の会長さんにお会いした。このA会長さん、商売的にはちょっと難しいところがあるのだが、中国ビジネスのパイオニアだけにいろいろ勉強させられることが多く、今日も予定の時間をオーバーしてしまった。A会長は既に70歳をゆうに超えているのだが、日本の老人医療費の急増に眉をひそめていた。生産性の無い手術や投薬で寿命が延びることにどれだけの意義があるのかということだ。高齢化の弊害を老人自身が指摘するという予想外の発言にこちらは面と向かって賛成ですとは言えず、苦笑いを浮かべるだけだった。

もし政治家がこのような発言をし、老人医療費の削減に努力するなどといえば120%落選の憂き目に遭うだろう。しかし、昔の日本人は「お勤め」が終われば「お迎え」がくるものという死生観を持っていたのではないだろうか。姥捨て山などというと非人間的な象徴と捉えられるかもしれないが、年老いた人間としては若いものの厄介にならず、自然に帰るものであるという論理が倫理に反していると抗弁できるだろうか。人間誰しも長生きはしたいし、身内の者もそうあって欲しいものだろう。しかし、介護それ自体がその人間にとって幸福かどうかという問題に対して正解をすることの困難さを誰もがもつのではないだろうか。私は今の日本の介護ビジネスには人間の尊厳というものは無く、ただ老人を商品としてみるビジネスではないかというと反論もあるだろう。

2050年も日本が世界一の長寿国という調査が先日厚生労働省が発表していたが、そんな老人大国が2050年に今の地位にあるとは思えない。誤解を覚悟して言えば、生きるということは命があるということではないということだ。


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