今日は寒かった。朝、普通に起きて、ああ、よかった、と思った。そんなことはあるはずがないのに、毎年この日が来ると、また何か起きるんじゃないか、と思ってしまう。
年末にこときれたTVは、13年前の今日、私の足元に落ちてきたTVだった。地震でいくつかの家電がだめになって、あるものは買い換えたり、別のはそのままになったりしたが、TVはありがたいことに無事だった。あとで考えたら、あの重さのものが、直接体の上に落ちていたら、いくら足でも怪我してたはず。それも運が良かったと思うしかない。お腹だったら、と思うと背筋が凍る。で、布団の上だったこともあり、かの機械もその後震災報道を伝えるのに役立ってくれたわけだ。
建物ごと巨人がつかんで振り回してるみたいに感じた揺れだった。最初のは訳もわからず、明け方で暗かったのに直後に停電して、前の国道も信号が切れて不気味だった。でも、本当に恐怖を感じたのは余震。昼となく夜となく、ゆっさゆっさと見えない手が家を動かす。これが一番きつい地震の予兆ではない、とは誰も断言できない。暗さにおびえなくてすむよう、電気をつけたまま眠った。服も着たまま。預金通帳や保険証は、いつもかばんに入れて持ち歩いた。
お兄の通う小学校も避難所になっていたし、仕事に出れば、市場に日用品を買出しに来るたくさんの人たちを横目に、まだブルーシートもかかっていない、瓦が部分的に落ちたままの家々の間を通って、銀行に行ったり郵便を出したり、私の日常は続いていた。豊中、特に庄内地区は、不思議な混沌としたエリアだった。死傷者もずいぶん出たし、全壊、半壊した家屋もたいへん目立っていた。にもかかわらず、ライフラインはすぐ復旧し、一見平穏を取り戻したように見えた。だから、すぐ隣町でお風呂にも入れない、とか飲料水が店から消えてしまった、とかいう言葉だけが、奇妙に浮き上がって聞こえてきていた。でも本当は、そういった目に見える復旧で隠されていただけで、避難所がなくなったのはどれ位経った頃だろうか?職場の同僚は、住んでいた社宅が倒壊して田舎に引き上げ、そのまま大阪へ戻ってこなかった。当時、大阪府下でもこれほどの被害があったことを知っていた人は、とても少なかったに違いない。
今年もあちこちで、震災を忘れないための行事が行われたようだ。直後に作られた歌を歌う小学生たち。でも、彼らの誰一人として震災を体験した子供はいない。もう13年経ったのだ。こっちゃんだって、まだお腹のなかにいたもんなあ。

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