2007/1/24

ノーモア水俣病:50年の証言(28)(29)(30)  公害・薬害・環境・医療問題

(毎日新聞連載)
ノーモア水俣病:50年の証言/28 「第2の政治決着」 /熊本
 ◇抜本解決ほど遠く−−繰り返す政府解決策の矛盾
 「これで財務当局にも強いメッセージが送れたでしょう」。“第2の政治決着”を目指す「与党水俣病問題に関するプロジェクトチーム」(PT、座長・園田博之衆院議員)が、認定申請者らの被害実態調査の実施を決めた9日、環境省の上田博三環境保健部長は部長室で安どの表情を浮かべた。
 同省は今年夏の来年度概算要求で、未認定患者救済策拡充のため10億円を増額計上していた。財政状況が厳しい中で、細かい使途は示さないままの異例の枠予算での要求だった。
 だが、第2の政治決着の内容は、当初目標の年内取りまとめは不可能になった。「実態調査」の決定は、年末の政府予算編成で予算を確保するための苦肉の策ともいえる。上田部長は「結論を引き延ばしたのではなく、調査は新たな救済策づくりのための環境整備」と理解を求めるが、政治決着の展望は開けていないのが実態だ。
 園田座長は第2の政治決着について「(96年の)政治決着の内容を超えることはありえない」との考えを示す。そうだとすれば、一時金は重度者に交付された医療手帳の260万円が上限ということになる。しかし、現在、係争中の国家賠償訴訟では、関西訴訟最高裁判決の賠償最高額に合わせ1人あたりの請求額を850万円としている。
 国が被害実態調査の対象とする認定申請者4800人のうち、1000人以上は訴訟原告。仮に原告・弁護団が目指している簡易手続きによる「司法救済制度」の道筋が見えた場合、第2の政治決着は形がい化する。実際、現在訴訟を進めている未認定患者団体「水俣病不知火患者会」以外の団体も提訴の構えをみせている。96年の政治決着では、解決策に応じず訴訟を続けた関西訴訟原告団が“正当な賠償”を勝ち取り、行政は抜本解決を問われた。水俣病問題は、いつか来た道をたどっているようにもみえる。
  ◇  ◇
 「水俣病問題の解決について」。95年6月、村山富市内閣の下、自民、社会、さきがけの連立与党が政府解決策を了承した後、元社会党衆院議員の馬場昇さんは村山首相あてにメモを送った。「水俣病は公害の原点。その解決は患者、国民、世界の人々の理解と評価に耐え、将来の地球環境保全に資するものでなければならない」。それが馬場さんの思いだった。
 メモでは「問題解決には民主的手続きが必須条件」として、被害者団体、地域住民代表、学識経験者などによる「円卓会議」の設置を提案。「企業や行政はそれを尊重する」としている。さらにその前提として水俣病発生地域の広範な健康、環境調査の実施を訴えていた。しかし、メモに対する村山首相からの返事はなかった。
 今回の実態調査は、現在救済を求める申請者ら約1万人が対象で、馬場さんが訴えた被害地域全域の調査にはほど遠い。
 「抜本解決に取り組むことこそ今の政治決着」。馬場さんだけでなく、当時の政治決着にかかわった多くの人から聞かれる言葉だ。【水俣病問題取材班】
毎日新聞 2006年12月12日

ノーモア水俣病:50年の証言/29 懇談会へ苦言 /熊本
 ◇官僚の責任逃れ、研究者から批判相次ぐ
 「すべての水俣病被害者に対して、公正・公平な対応を目指し、いまだ救済・補償の対象になっていなかった新たな認定申請者や潜在する被害者に対する新たな救済・補償の恒久的な枠組みを早急に打ち出すこと」
 小池百合子・前環境相の私的懇談会「水俣病問題に係る懇談会」(有馬朗人座長)が昨年9月19日、提出した提言書の一節だ。懇談会は、行政の過去の失敗の本質などを検証するために設置され、官僚の激しい抵抗を受けながらようやく提言を練り上げた。現行認定制度が事実上破たんしている現状を踏まえて「恒久的枠組み」の構築を柱に、客観性を持ちつつも被害者に寄り添う「2・5人称」の視点を行政官に求める−−などを盛り込んだ。
 経緯からすれば理想を追求し評価すべき点はあるが、認定基準の見直しという“直球”の表現には至らなかった。今月13、14日、水俣市で開かれた「水俣病事件研究交流集会」では、作成に至った経緯を含めて研究者らが苦言を呈した。
 元NHKアナウンサーで水俣病事件を研究するジャーナリスト、宮沢信雄さん(71)=宮崎市=は「あの懇談会は、環境省の官僚が担当を変わるまでの時間稼ぎ、責任逃れのためのものにさせられたのだと思えてならない」と切り捨てた。
 行政責任を認めた関西訴訟最高裁判決が出た時の環境相や官僚たちは提言書が提出された昨年9月、次々と異動した。「『あとは知らないよ』って感じ」と宮沢さんは皮肉る。
 提言書作成段階でその官僚たちは、秘密会で話し合われた懇談会提言書の起草委員会で、現行認定基準について立ち入ろうとする懇談会委員らに対し「場合によっては、提言書を受け取らない」と脅したり、涙を流したり、なりふり構わず、判断条件を守ろうとした。
 「『なんでその時に『受け取らなくてもいいから、出す』と言わなかったのか。あるいは、なぜ委員たちは辞任しなかったのか。それが残念でたまらない」と宮沢さんは嘆く。
  ◇  ◇
 龍谷大学文学部の丸山徳次教授(58)=哲学=の目も厳しい。
 「事件再発防止への視点と被害者救済への視点が混在し、行政の行為改善への提言も、業者の視点が混在しているため『再発防止イコール予防』、の観点が明確でない」と指摘する。行政の責任があたかも被害拡大防止にだけあるかのような前提に立って議論がなされているという訳だ。
 さらに「疑わしきは規制せず」という行政の行動パターンを指摘。そうした行動様式がいかなる法的・政治的な慣習に基づくのかを分析することなく「2・5人称の視点」を身につけることを、行政官個人の「倫理」として要求するだけに終わっていると話し「行政官の行為を導く、根拠法に基づく規範を明らかにしていない」と激しい口調で批判した。
 15日、県は認定審査会の再開を発表した。認定の判断条件は見直さないまま。懇談会提言書が影響を及ぼさなかったと言えるだろうか。【水俣病問題取材班】
毎日新聞 2007年1月16日

ノーモア水俣病:50年の証言/30 生活学校 /熊本
 ◇胎児性患者は仲間−−責任分担、共に働く職場作る
 水俣市袋に柱がやや曲がり、すき間風が入る300平方メートル近い大きな建物がある。82年3月から約10年間開校されていた「生活学校」の校舎兼宿舎跡だ。生活学校は1年間、共同生活しながら水俣病と有機農業を学ぶ場だった。現在、校舎跡を自宅兼工房として使う紙漉(す)き職人、金刺潤平さん(47)は生活学校2期生だった。
 静岡県沼津市で生まれた。上智大理工学部で熱工学を学んでいた時、恩師に連れられ見に行った会合で「環境問題でやられた水俣の次の時代を考えよう」と熱く語る生活学校の責任者に出会った。
 エンジニアを目指し、朝から晩まで実験に追われていた。が、教授陣が紹介するロケット開発は戦争につながる気がし、関連メーカーなどへの就職をためらっていた。4年の夏、水俣病患者支援団体「相思社」が開いた「実践学校」に1週間参加し、堆肥にまみれながらの農作業を体験。内定していた自動車メーカーをけって大学を卒業した83年春、水俣に来た。「人間らしい生活がしたかった」からだ。
 同期は、胎児性患者の坂本しのぶさん(50)ら患者と途中参加者を含め16人。素人集団だったが、農業者の教えを請いながら患者から借りた土地で休耕田を耕したり、みかん畑を開墾した。金刺さんはさつまいも栽培を担当しながら、校舎屋根に温水装置を作った。運営費ねん出のため、北海道から仕入れたサケを売りさばいた。
 生活学校の卒業が近づいてきた同年11月ごろ、仲間の患者と共に職場を作ることにした。焼き物、木工、竹細工工房を見学したが、作業の難しさや資金不足で難航。それを聞いた作家、石牟礼道子さんが紙漉きを勧めてくれた。
 翌年3月28日、金刺さんは近くの民家を借り、胎児性、小児性水俣病患者3人を含む5人で、紙漉きの工房「浮浪雲(はぐれぐも)工房」を開いた。口コミで仕事は広がり、有名作家のはがきや封筒の注文も舞い込み、1年後には軌道に乗り始めた。
 当時は「患者は同じ仕事が長続きしない」と言われることが多く、工房を始める時も周囲は「長くて2〜3カ月、短くて2週間」と予想したという。金刺さんははがき、便せん、封筒担当と縦割りで3人それぞれに責任を持たせ、責任意識を保つよう工夫。仲間が年単位で一つのことに取り組めることを実証した。最も長い仲間は10年近く共に働いた。
 金刺さんは今も妻と2人で工房を続ける。手漉き和紙の職人として研修・研究を重ね、アマゾンなど海外でも紙漉き技術を教える傍ら、現在は色落ちノリの資源化などにも力を入れている。
 「エンジニアとかけ離れているようでも、物を作る点は同じ。自分のやりたいことをやってきただけ」と金刺さん。間もなく地元の小学6年生たちが、恒例の手漉き卒業証書作りにやってくる。【水俣病問題取材班】
毎日新聞 2007年1月23日
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