2007/4/17

武富健治『鈴木先生』 ーマンガはマンガである  マンガ

[マンガはマンガである]
武富健治の『鈴木先生』は、「マンガはマンガである」とでも呟くしかないような傑作である。

しかし、「マンガはマンガである」と言う時、あるいは「映画は映画である」とか「音楽は音楽である」と言う時、いったい何を言っているというのか?
「映画は映画である」の場合は純粋に映像と音によって、「マンガはマンガである」の場合は絵とネーム(台詞、言葉)によって、他の表現ジャンルではなし得ないことをしているということなのだろうか・・?
たぶんそのようなことだろう。そして、同時にリアリティの問題なのではないかと思う。

武富健治の『鈴木先生』は、異様に現実的なリアリティを感じるマンガである。中学校の教室の場で起こっている、ごくごく日常のなんということもないようなエピソードを拾い集め、教師と生徒との葛藤を具体的にリアリティをもって描き出している。
ある生徒が給食時間にちょっとした問題発言をした・・そんな、はっきり言って、わざわざマンガにするようなことなのか?と思えるような、日常のどこにでもありそうな他愛がない話をマンガにしている。
その意味では、等身大の中学教師像を描き出したといっていいのかもしれない。
だが、この『鈴木先生』を「等身大もの」だと言うと、ちょっと違和感を感じてしまうのは、このマンガのディテールの描写のひとつひとつは現実にはあり得ないものだと思うからである。
だって、現実に、ある生徒が給食時間に問題発言をした・・というようなことで、教師が何日もとことん悩み抜き、論理的思考の果てにある「真実」に到達する・・なんてことがあるんだろうか? そんな教師、いるんだろうか?
だから『鈴木先生』で描かれるディテールのひとつひとつはあり得ないものなのではないか?とも思える。しかし、この作品が到達しているのは、たしかに現実的なリアリティを醸し出すことであり、鈴木先生は理想的な熱血教師・・とばかりは言えない「普通」の教師だからこそ、共感を呼ぶ作品になり得ているのではないだろうか?とも思える。
(「鈴木」先生という名前が「普通さ」を象徴している・・。)

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[マンガにおけるリアリティとは?]
この作品にリアリティを感じる、と言う時に、2種類のリアリティのあり方があるのかもしれないと思う。
ひとつには、ディテールが徹底的にリアルというのか、「こういうこと、あるある」「このネーム(台詞)、あるある」みたいに読者が感じて、リアリティがある作品だと感じるというもの。
もうひとつは、ディテールのひとつひとつはあり得ないことばかりなのにもかかわらず、全体になぜか、リアリティを感じる場合である。
具体例をあげると、安野モヨコや黒田硫黄のマンガは前者であり、岡崎京子や武富健治のマンガは後者であると言っていいかもしれない。
たとえば岡崎京子のマンガについて、ある知人が「あり得ないファンタジーである」と言っていた。でも、だからこそ、かっこいい、と・・。
この知人の言うことに僕はなるほどと思い、参考になる意見だと思った。
同時に、むむむ、でも岡崎京子ってホントに「あり得ないファンタジー」だからいいのかなあ・・?と違和感も感じた。
たしかに岡崎京子のマンガは現実にはあり得ないようなディテールで出来ていると思えるところはある。しかし、岡崎京子のマンガが衝撃的だったのは、ファンタジーだったからではなく、そこで描かれた「リアル」が衝撃的だったからではないのだろうか?
つまり、ディテールはあり得ないようなことばかりでもリアルに到達する・・という場合もあるのではないか?

もちろん、マンガにおけるリアルの問題と、映画におけるリアルの問題はちょっと違うところがあるので、それぞれ別個に考えないといけないように思うのだけれども・・

岡崎京子や武富健治が、ディテールはあり得ないことばかりなのにリアルに到達しているのは、まさにそれがマンガだからこそ成し遂げられたものなのではないだろうか?
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