2007/5/1

『フランドル』 ーブリュノ・デュモンは唯一無二の映画作家である  映画

ブリュノ・デュモン監督『フランドル』

やっぱり傑作だった。
これは分からない人にはまったく分からない映画・・かもしれないと思うので、他人におすすめするつもりはないけれども。
もう冒頭のワンカットめから、おお、ブリュノ・デュモンの世界だと感じる・・。パッと見ただけで監督が分かるというのはすごい・・。
反面、あまりにもブリュノ・デュモンの世界なので、ちょっとマンネリになってきているのかも・・とも思ったのだけど、ラストにこれまでの『ジーザスの日々』『ユマニテ』といったデュモン監督作品にはなかった地点に到達する。だから結果としてはやっぱり傑作。

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この映画のヒロインのように、たいして愛情がなくても次々と男たちとセックスする「ふしだらな女」・・というのはやっかいな存在には違いない。現実にそういう女がいるだろうか?とか、男が理想化した女性像なのではないか?といった意見も出てくるかもしれない。
もちろん、これはフィクションの創作であるわけだから、現実には存在しない男にとっての「夢の女(?)」を描いてもいっこうにかまわないわけだが・・ブリュノ・デュモンという監督が特異なのは、決してそういうことを一方的にやっているわけでもないことである。
デュモンはインタビューで次のように答えている。

「男たちが戦場へ行きありとあらゆる人間性を失うこの物語において私は、バルブという若い女性の身体に戦争の恐ろしさの反響板のような役割を持たせたかった。しかし同時にそれはちょっと単純で愚かな考えかもしれないとも思っていました。最終的にはバルブの狂気を完璧には体現はできませんでした。バルブ役のアドレイドが完全な狂気を演じきることができなかったからです。しかしそのおかげで物語が、バルブを理想化しすぎてしまうのを避けることができました。いつも現実が、私が理想に偏ってしまうのを救ってくれるのです。」

そう、この逡巡こそがまさにデュモンの真骨頂なのだと思う。
デュモンは驚くべき独創的なイメージを見せる映画作家だけれども・・同時に、そのイメージを完璧に描き出すことに精を出す完全主義的な作家なのかと言うとそうではないのだと思う。風景や人物(役者)といった現実を前にしてデュモンは敗北するのだ。そして、凄いイメージを抱きながらも、それを完全に築き上げるのではなく、現実を前にして敗北し逡巡していること・・こそが、まさにデュモンの映画を他の映画と決定的に異なるものにしているのではないだろうか?

以前に僕は、「武富健治『鈴木先生』 ーマンガはマンガである」(*)の中で、岡崎京子のマンガは現実にはあり得ないようなディテールで出来ているのにもかかわらず、ファンタジーではなく「リアル」なんだ・・と書いたけれども、それに近い感覚的なことを映画でやっているのがデュモンなのではないかと思えるところがあって・・
デュモンの映画のディテールのひとつひとつや登場人物は現実にはない(いない)のかもしれないけれども、にもかかわらずデュモンがやっていることは「リアル」ということなんだと感覚的に思えるところがある気がするのだ。

とにかくブリュノ・デュモンは唯一無二の映画作家であると思う。

*参考
「武富健治『鈴木先生』 ーマンガはマンガである」
http://blue.ap.teacup.com/documentary/1120.html
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2007/8/9  0:15

投稿者:kusukusu

この監督は哲学の先生だったらしい。哲学の先生から映画監督に転身した。わからない映画を撮るのは当然か。

2007/8/6  23:08

投稿者:mirokuninoti

>たいして愛情がなくても次々と男たちとセックスする「ふしだらな女」・・

 案外こういう女じゃなかったでしょう?この人。 

 結局「純愛映画」のようになっていたのだけど、「さっぱりわからん」というのが本音です(爆)。
 
 

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