2008/5/6

基礎から分かるチベット問題(毎日新聞)  ニュース

(毎日新聞より)
ニュースナビ:基礎から分かるチベット問題(上)歴史と仏教

米シアトルへ向かうため成田空港に到着し、報道陣の呼びかけに笑顔を見せるダライ・ラマ14世=千葉県成田市で4月10日午後4時18分、石井諭撮影

 五大陸総延長9万7000キロに及んだ北京五輪の海外での聖火リレーは、中国当局のチベット政策に対する激しい抗議行動にさらされ続けた。直接の発端となったのが、中国チベット自治区で起きた暴動の鎮圧だった。北京五輪の評価を揺るがしかねないチベット問題とは何か。チベット仏教へのあつい信仰に支えられながらも、政治の波に翻弄(ほんろう)されてきたチベットの歴史を振り返るとともに、その現状を分析、今後を展望してみた。

 ■北京の圧力、反発と妥協−−仏の化身信じる、誇り高き民族

 ◆NAVI1・歴史は?
 ◇7世紀「吐蕃」−−1950年から解放軍進駐

 中国南西部、崑崙(こんろん)やヒマラヤの山々に囲まれた雲表の地チベット。アジアの大河の源流域でもある高原に統一国家「吐蕃(とばん)」が成立したのは7世紀だ。その名は玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の紀行「大唐西域記」や、平安時代に編さんされた奈良時代の史料「続日本紀」にも登場する。

 吐蕃には勢いがあった。唐の皇帝の娘を王妃に迎えたり、763年に戦乱で疲弊した唐の都、長安(現在の西安)を占領し、皇帝を擁立したりした。仏教の国教化は8世紀。インドと直接、交流し、イスラム教やヒンズー教に押され、消えつつあった当時のインド仏教を受け継いだ。

 9世紀半ばに吐蕃は分裂、衰退した。その後、勢力を伸ばしたモンゴル人支配者はチベットと深くかかわった。元の初代皇帝フビライはチベット僧を重用。チベット支配の代行役とした。元はチベット仏教も導入した。

 明代、チベットでは仏教の宗派と結びついた氏族同士の勢力争いが続いた。チベット仏教とモンゴルの関係は16世紀半ばに復活。17世紀にはチベット中央部を征服したモンゴルの王侯がダライ・ラマをチベットの宗教的、政治的権威と認めた。

 モンゴルを駆逐した清はチベットの宗主権を手に入れるが、最盛期の皇帝の一人、乾隆帝はチベット仏教を保護し、寺院や僧院を建立。モンゴルや清朝との単純な支配、被支配ではない関係は、その後の複雑な歴史に影響を与えている。

 1911年の辛亥革命で清が倒れ、チベットは13年にモンゴルと「蒙蔵条約」を結び、互いに独立国として承認。住民に「独立」を宣言した。だが、独立をめぐるチベットと中華民国の間の紛争調停のため、英国を交えて開かれたシムラ会議では、チベットは中華民国の主権下に置かれ、英国にアッサム地方との国境線(マクマホンライン)を認めさせられた。

 第二次大戦後、台湾に逃れた中華民国に代わり、中華人民共和国が成立。50年に人民解放軍が進駐を始め、翌年ラサに入城。この間、チベットと中国の間で「チベット人民は中華人民共和国の祖国の大家族の中に戻る」などとする17条の平和解放協定が結ばれた。だが、59年に漢民族中心の共産党による支配に対する抵抗が激化。この動乱を軍が武力制圧し、ダライ・ラマ14世はインドへ亡命した。

 89年にもラサで暴動が起き、戒厳令が敷かれる。自治区トップの共産党委書記が胡錦濤国家主席で、住民の生活改善に力を入れる一方、「独立分子」には厳しく対処。当時の最高実力者、トウ小平氏に評価され、49歳の若さで最高指導部の党政治局常務委員会入りするきっかけになったとされる。同年、ダライ・ラマ14世がノーベル平和賞を受賞した。中国当局は、経済発展をテコに、チベット問題の解決を狙っている。

 ◆NAVI2・チベット仏教とは?
 ◇4大宗派、独自の「転生」理論−−後継「活仏」選定、中国の干渉も

 インドから伝わった仏教は7世紀、チベットに根づき始める。13〜14世紀にかけ、インド、ネパールの経典がチベット語に翻訳され、現在の形にまとめられた。チベット仏教は密教を含む大乗仏教を根本としており、チベット民族の統一と文化の維持に意義を持つ。

 チベット仏教にはニンマ派、サキャ派、カギュ派、ゲルク派−−の4大宗派がある。チベット仏教界の最高指導者ダライ・ラマ14世は、最大宗派ゲルク派の出身だ。

 16世紀に、後にダライ・ラマ3世となるソナム・ギャツォがモンゴルの王侯、アルタン汗から「ダライ(知恵の海)」の称号を贈られた。以後、大僧正が「ダライ」の称号を持ち、高僧を意味する「ラマ」を付け「ダライ・ラマ」と呼ばれた。

 チベット仏教では13世紀から、聖なるものが人間の形でこの世に現れるという「転生」理論がみられるようになり、独特の転生相続制度を作り上げた。

 ダライ・ラマは観音菩薩の化身、第2位で「偉大な学者」を意味するパンチェン・ラマ(ゲルク派)は阿弥陀如来の化身とされる。ダライ・ラマが幼少の時にはパンチェン・ラマが師となり、その逆もある。ただ、パンチェン・ラマはダライ・ラマを助けるために現れたとされ、政治権力は与えられていない。

 パンチェン・ラマ9世はダライ・ラマ13世との不和から当時の中華民国に亡命。転生者のパンチェン・ラマ10世はダライ・ラマの認定を受けることなく中国側の認定だけを受けた。パンチェン・ラマ10世は1952年にチベットに戻り、30年ぶりに公式に和解。しかし、ダライ・ラマ14世が1959年にインドに亡命する一方、パンチェン・ラマ10世は北京にとどまった。

 パンチェン・ラマ10世が89年に死去すると、ダライ・ラマ14世は95年5月、チベットに住むゲドゥン・チョエキ・ニマ少年(当時6歳)を転生者と公表した。これに対し、中国政府はニマ少年を軟禁し、同年11月にギャインツァイン・ノルブ少年(同)を独自に転生者と認定した。

 ダライ・ラマ14世が死去した場合、ニマ氏は転生者の認定に関与できず、中国側が認定したノルブ氏が影響力を行使する可能性が高い。中国政府は昨年9月、活仏転生に関する規則を施行し、「外国のいかなる組織、個人の干渉や支配も受けるべきではない」と明記した。ダライ・ラマ側による転生者認定を阻む狙いがあるとみられる。

 一方、亡命チベット人の間では、00年にインドに逃れたチベット仏教第3位のカルマパ17世(カギュ派)に期待する声も出ている。
http://mainichi.jp/select/world/news/20080505mog00m030003000c.html

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チベット問題

 ◆NAVI3・暴動の経緯は?
 ◇「動乱49年」…3月、ラサ−−独立求め僧侶デモ

 一連の暴動のきっかけは、「チベット動乱」から49年に当たる3月10日、チベット自治区ラサで独立を求める僧侶らが起こしたデモだった。米政府系の「ラジオ自由アジア」によると、警察は約70人を拘束。その後もデモがあり、14日には住民も加わった大規模暴動へと発展した。中国政府は「暴徒が商店の破壊や略奪、放火をした」と指摘するが、亡命政府は「武力鎮圧で少なくともデモ隊の99人が死亡した」と非難している。

 暴動は周辺各省のチベット族自治州に波及した。ダラムサラの非政府組織(NGO)「チベット人権民主化センター」は、四川省や甘粛省、青海省で抗議デモが相次ぎ、多数の死者が出たと伝えている。亡命政府は4月29日、ラサや周辺での中国側の鎮圧によるチベット人死者が203人、負傷者は1000人以上となり、5715人以上が拘束されていると発表した。

 一方、新華社が報じた死者数は、ラサでの市民18人と警官1人、四川省と青海省での警官各1人にとどまっている。また、ラサ中級人民法院(地裁)は4月29日、3月14日の暴動で逮捕、起訴された僧侶ら30人に対し、無期懲役から禁固3年の実刑判決を言い渡した。

 ◆NAVI4・亡命政府とは?
 ◇印北部に設立−−予算、海外からの寄付

 亡命チベット人は現在、世界20カ国以上に約13万4000人がいるとみられている。そのうち、最も多いのがインドの約10万人。ダライ・ラマ14世を頂点とする亡命政府もインド北部ダラムサラにある。

 亡命政府は、ダライ・ラマが亡命した直後の1959年4月にインド北部のムスーリーで設立され、翌60年5月にダラムサラで本格的に発足した。

 元首に相当するダライ・ラマの下で、カシャックと呼ばれる内閣(行政)、代表者議会(立法)、最高司法委員会(司法)に機能が分かれている。

 内閣は首相に相当する主席大臣をはじめ4〜8人で構成され、文部省や財務省など七つの部門を管轄している。代表者議会の議員46人のうち、43人は亡命チベット人の直接選挙で決まり、残る3人はダライ・ラマが指名する。このほか、ニューヨークやジュネーブなど主要11都市に事務所を置いている。

 予算の大部分は、亡命チベット人や海外の支援団体などからの寄付で成り立つ。亡命政府が公表した05〜07年の開発プロジェクト予算は、7省で計6億8226万ルピー(約17億7300万円)を計上している。

 聖火リレーへの抗議を通じ、広く知られるようになったチベットの旗は、ダライ・ラマ13世の時代にデザインされた軍旗が基になっているという。

 中央の白い三角形は雪山を表し、赤と青の光線は二つの守護神によって伝統が守られることを象徴している。太陽は自由と繁栄の享受を、1対のスノー・ライオンが支える三つの宝石は精神的なよりどころであるブッダとその教え(法)、僧侶を意味している。

 ◆NAVI5・急進派とは?
 ◇独立掲げるNGO−−亡命者ら若者主体

 今年1月、ダラムサラに拠点を置く五つの亡命チベット人組織が「チベット人民蜂起運動」を結成した。「チベットにおける中国の不法占拠終結に向けた直接行動」を主張しており、米議会調査局の報告書は急進独立派の台頭として懸念を示す。「蜂起運動」の中核は、チベット人の非政府組織(NGO)として最大規模を誇る「チベット青年会議」だ。世界に80カ所以上の支部を持ち、約3万人のメンバーを抱える。「中国からの独立」を掲げ、チベット人の「本心」を代弁していることが、若い世代の人気を集めている。

 ただ、青年会議幹部会の一人は「多くのメンバーは本気で独立を勝ち取れるとは考えていない」と語る。東大東洋文化研究所の大川謙作助教も「海外留学組などのエリートが独立活動を意識しているが、大きくなり過ぎ、さまざまな立場の人がいる」と解説する。

 中国政府はチベット暴動について「ダライ集団が画策した」と非難し、急進派組織の活動を「証拠」として指摘する。これに対し、青年会議のシバン・リグジン議長は「信じられない言い分だ。抗議行動はチベット人たちの自発的なものだ」と関与を否定した。

 インドには穏健派の「チベット連帯委員会」など大小約50の団体がある。彼らの活動は、亡命チベット代表者議会のガイドラインに沿って認められている。青年会議の活動も亡命議会が認めている形だが、これを中国政府が「ダライ集団の画策」と指摘する根拠にしていると亡命政府はみている。

 しかし、実態は「亡命社会の多様な意見」を認めているに過ぎず、ある穏健派団体幹部は「青年会議の活動が中国を硬化させている」と冷ややかな見方を示す。ダライ・ラマの指導の下にあるとはいえ、亡命チベット人社会は必ずしも一枚岩とは言えないようだ。
http://mainichi.jp/select/world/news/20080505mog00m030005000c.html


*毎日新聞に「基礎から分かるチベット問題」という特集記事が出ていた。
 情報が錯綜しているチベット問題であるが、この記事を見ると、チベット暴動を中国政府側は「ダライ集団が画策した」と決めつけているけれども、やはりそうではなく、独立ではなく自治を求めているダライ・ラマらの亡命政府と、独立を求める「チベット青年会議」とがそれぞれ別に活動している・・ということなのではないだろうか?と思える。
 僕は以前にもちょっと書いたけれども、中国から独立し、かつダライ・ラマが権力の座につくのでもない、民主的な政府をチベットで樹立する・・というのが理想だと思うのだけど、現状ではただの空想的な理想論でしかないのかもしれないけれども・・。
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2008/5/6  23:40

投稿者:kusukusu

「空想的な理想論」と書いたけれども、そうすると、ダライ・ラマのように、あくまで独立ではなく自治を求めて平和主義の立場から世界に訴えるというやり方のほうがまだ現実的なのかもしれないけど・・。これだって、容易に中国が乗るとは思えないが・・。

以下がダライ・ラマ14世のお考え。

ダライ・ラマ法王14世による五項目和平プラン
http://www.tibethouse.jp/cta/5point_peace_plan.html

中道のアプローチ:チベット問題解決に向けての骨子
http://www.tibethouse.jp/cta/middleway.html

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