2009/4/30

『グラン・トリノ』  映画

個人的には『センチメンタル・アドベンチャー』が一番、好きなクリント・イーストウッド作品なので、『センチメンタル・アドベンチャー』を思わせるところ(喀血)が好き。ラストのかすれた歌声も、どことなく『センチメンタル・アドベンチャー』を思い起こさせた。
それにしても、この脚本はもともと別にイーストウッドのために書かれたわけではなく、あったもので、しかも基本的に脚本の台詞を変更せずにそのままだと言うんだけど、そのことが一番、驚きかもしれない。よくこんなイーストウッド向きの話が転がっているものだなあと。
『チェンジリング』だって実話だと言うし、イーストウッドで一番、謎なのは、けっこう脚本家はいつも違う人のものなのに、ああ、これはイーストウッドのやる話だよなあという一貫性があるということ。イーストウッドの映画の物語には明らかに傾向というのか、一貫性があるからね。(補足として、『ミスティック・リバー』公開時に僕が書いた一文を最後に加えます。)それが、毎回、違う脚本家(違う人が考えた話)というのは一体、どういうことなのか・・。
まあ、ハリウッドはとにかく脚本のストックがたくさんあるので、イーストウッドの嗅覚を刺激するものが探すとそれだけ転がっているということなのかもしれないけど・・。で、それはよく出来た脚本でも、イーストウッド以外の人だったらなんだか、これはちょっと違うなあ・・と思って自分の映画には選ばないものをイーストウッドはこれだと思うことが多いということなのか・・。たぶん、これにはキリスト教との関係というのか、立ち位置みたいなのがあって、そこらへんは日本人には分かりにくいところなのかもしれないが、やっぱりキリスト教文化圏の人だとそうした価値観がどこかで身についてるからこの映画で描かれるような教会とか神父の描き方にはどこかで本能的に反発するものがあって、この物語はどこか違うんじゃないか?と思いがちなのであるが、イーストウッドは逆にそこに興味を持つのかもしれない。
それと、これもキリスト教と関連あることなのかもしれないが、「家族・親族を信じられない人の物語である」ということ。そこに違うと思う人がいるのではないか?と思うのだけど、イーストウッドは逆にこれだと思うのかもしれない。そのように家族の物語として考えて行くと、小津の映画が想起されるわけだけど、しかし、小津とイーストウッドをそうした連関性で考えると、冒頭に書いたように、イーストウッドはいつも脚本家が違う人のものであるということが、つまり小津のように特定の脚本家の人と話を練り上げていったわけでもないようだということがやはり驚きとして浮かび上がってくる。
それにしても、『グラン・トリノ』でもやはり「家族・親族を信じられない人は不幸になる」ということが描かれているのであるが、イーストウッドが繰り返し、そうしたことを描いて来たのはなんなのだろうか。今回の作品の、妻の懺悔しなさいという言葉に従わないことの苦悩というところは『許されざる者』を思わせる。(ただ、今回の『グラン・トリノ』で、妻が懺悔してと言ってたのは、朝鮮戦争とかのことよりも、親族に対するふるまいについて懺悔してと言いたかったのではないかと思うんだけど・・。)あるいは、『ミスティック・リバー』の、家族が信じられなかった人は不幸になる・・というかのような展開。だからこそ、『チェンジリング』のヒロインはひたすら息子の帰還を信じようとした(家族を信じようとした)わけなのか・・。
そういう意味では、『グラン・トリノ』では、悪者の若者たちの側も、一見、ひたすら理不尽に悪者であるかのように思えるかもしれないけど、実はそうではなく、論理があって動いていることが分かる。つまり、このどうしようもないように見える若者たちも、最初は、親族だから救おうとして、自分達なりに「正義」の行動をしようとしたのであることが描かれている。なのに、親族の青年が無視したから腹を立てたわけだ。理由があるのである。それが理由だから、この若者達はイーストウッドが演じる主人公の家を襲うのではなく、あくまで親族を執拗に襲おうとしたのではないか。つまり、彼らはイーストウッドが演じる主人公の行動に腹を立てているのではなく、親族の人達の自分達への対処を問題にしているのではないだろうか。


(補足)『ミスティック・リバー』公開時に僕が書いたもの
本作「ミスティック・リバー」について、9.11以降のアメリカをとらえていると書いたのだけれども、それだけ現実世界をつかまえた迫真性をもつ作品だと思ったのでそう考えたのだけれども、しかし、実はここで描かれている、法律による善と悪の観念をこえて人間をとらえようとする観点は、イーストウッドが一貫して描いてきた主題である。だから、特に9.11以降だからこうした映画を撮ったと考えるのは間違いだったかもしれない。

そもそも、出世作「ダーティハリー」からして、法のルールの範疇をこえて捜査をするはみ出し者の刑事の活躍を描くものだし、「アウトロー」(1976)は殺された妻の復讐をしようとする農夫を描く話だし、あるいは「許されざる者」(1992)にしても、法のルールをこえて動く人物たちをイーストウッドは繰り返し描いて来た。
こうしたイーストウッドの姿勢を、タカ派的な思想であると見ることはもちろん出来ると思うし、実際、イーストウッドはタカ派の人なのだろうと思う。
だが、イーストウッドが繰り返して描いて来たそうしたドラマを、端的にタカ派思想を肯定するものとしてとらえるべきなのかどうかは疑問である。というのは、イーストウッドの映画ではそうしたタカ派的人物がそうした行為を行った結果の苦悩や葛藤も描かれていると思えるからである。ならば、そうした人物を必ずしも肯定しているとは言えないのではないかと思う。
それよりも気にかかるのは、こうした人物が出て来ることがまるでこの社会の必然であるとイーストウッドはもしかしたら考えているのではないかと思えるぐらい、繰り返し、現状の法や裁判の制度に対する不信感、正義が現状の世界で機能していないという不信感がドラマの主軸として描かれて来たと思えることである。
たとえば、「ガントレット」(1977)は裁判の証人が命をねらわれるのを守ろうとする話だし、「真夜中のサバナ」(1997)や「トゥルー・クライム」(1998)は冤罪かと思われる事件に取り組むジャーナリストや新聞記者の話である。
あるいは、「ペイルライダー」(1985)や「許されざる者」は悪徳な保安官と対決する話だ。本来、正義を守るべき保安官が悪徳なことをしている認識のもとにドラマが描かれているわけである。
ここまで繰り返しこうした話を映画にしてきたことを考えると、やはりイーストウッドは法や裁判の制度の機能に対する不信感、あるいは現状で正義が機能しているのかということに対する不信感というのか、絶望感をもっているとしか、思えない。
「パーフェクトワールド」(1993)に至っては、主人公の刑事はかつて逮捕して刑務所におくった少年がそのために犯罪を繰り返す人間になったのではないかと苦悩しているのである。ここには逮捕して刑務所に入れても結局は人間は裁くことは出来ないのではないかという考えさえ、読み取れないことはない。
だから、この「パーフェクトワールド」の思考の延長で考えるならば、「ミスティック・リバー」のショーン・ペンにしてもやはり刑務所に入った人間であるということがかえって彼をあのような人物にしたのではないか?ということが描かれていると読み取れるのである。
もちろん、だからといってそうした人物を肯定するというのは近代社会の法というもの自体を否定してしまうような話であり、暴論にしかならないと思うけれども、そもそも人間の善と悪とはなんなのか、法というものがなんなのかということにまでイーストウッドは不信感をもっているのではないかと思えてくるのである。
だから、「アウトロー」のような復讐の話と、「トゥルー・クライム」のような冤罪をはらそうとする話とは表裏一体のものなのだと思う。
3



2009/5/13  22:51

投稿者:シムウナ

TB有難うございました。
クリント・イーストウッドの俳優業引退説も
囁かれましたが、こんなに貫禄のある演技を
観ると俳優業もそして、監督業も情熱の
続く限り続けて欲しいと思いました。
ラストの余韻は上映後も残りました。

今度、訪れた際には、
【評価ポイント】〜と
ブログの記事の最後に、☆5つがあり
クリックすることで5段階評価ができます。
もし、見た映画があったらぽちっとお願いします!!

http://blog.livedoor.jp/z844tsco/archives/51622966.html

コメントを書く


名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ