2009/5/11

『レイチェルの結婚』  映画

(ややネタバレあり)

















更正施設で、効果をあげるために嘘のプロフィールをつくって治療に当たる・・というようなことは以前に聞いたことがあって、ちょっと興味深いなと思ったことがあったが、そうしたことをうまくアイデアとして取り込んでいるところに面白い脚本だなと思った。
また、この映画については『映画芸術』誌最新号で濱口竜介監督が評を書いているのだけれども、そこでも結婚というフィクション性についての映画だ・・というようなことが書かれていて、なかなか面白い。
この作品の面白さ、というか、すがすがしさは、更正施設での嘘のプロフィールというフィクション、結婚というものが持つフィクション性といったものを描きながら、そうした嘘を暴いてけしからんと非難するわけではなく、人間がよりよく生きて行くためにはそのようなフィクションをつくってそれに依拠して生きて行くことが必要なのではないかという視点に立ち、ポジティブなものとしてとらえようとしていることから来るのではないだろうか。そして、対照的にも思える姉妹の話なのだけれども、更正施設で嘘のプロフィールというフィクションをつくった妹と、結婚というフィクションを生きようとしている姉という形で実はこの姉妹に共鳴するものがあることを描き出しているのであり、それがラストの展開にもつながっているのだ・・と見ることも出来るのではないだろうか。

ちなみに、ここからは余談であるが、人が生きて行くにはフィクションが必要なのだ・・とすると、そもそも人生というのはフィクションなのではないか?という見方も出来るのかもしれない。すると、フィクションの劇映画作品と、ドキュメンタリーとか、あるいは現実にあった出来事を題材にしたいわゆるノンフィクション作品との間に区別があるように言うけれども、実はないのではないか(現実もフィクション性のもとに人は生きているのであるから)・・というような意見もあるのかもしれない。それは一理あるとは僕も思うのだけど、それでもフィクションとノンフィクションには違いがあるように思う。その違いとは、端的に言うと、フィクションの劇映画作品は基本的にはその映像作品のつくりて自身が考えたフィクションを描こうとしているのであり、その作品の登場人物もつくりてがフィクションとして考えつくりあげた人物像(もちろん、現実にいる人物をモデルにしている場合も多いのだとしても、つくりての考えで虚構の人物像が築き上げられている)であるのに対し、ノンフィクションの映像作品の場合は、被写体になっている人物がどのようなフィクションを抱いて生きているのかを見い出そうとしているというのか、もちろんそれをいかに作品としてまとめるかは映像作品のつくりて自身が考えている面はあるわけだから、他人が考えているフィクションを見い出し、どのようなフィクションのもとに生きているかをとらえ、そうした他人性に依拠して自分の映像作品というある種のフィクション(ノンフィクションであったとしても自分の考えで映像をまとめるという点ではフィクション性を持つ「ある種のフィクション」)をつくりあげようとしているということなのではないだろうか。そして、いわば他人性を自分の作品にするということにこそ、ノンフィクションのつくりての倒錯的な喜びがあるのではないかと思うのだ。(1から自分が考えたんだ・・などとは決して思わず、酔ったりしないので、逆にそこに倒錯的な喜びがあるのだということ。)
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