2011/12/1

アップリンクで『大津波のあとに』『槌音』  映画

アップリンクで、『大津波のあとに』(森元修一監督)、『槌音』(大久保愉伊監督)を鑑賞。
どちらも3.11の大震災の被災地を取材したドキュメンタリーで、『大津波のあとに』は仙台市、東松島市、石巻市を、『槌音』は大久保監督の出身地である大槌町を取材している。いずれも、森元氏、大久保氏がそれぞれ、撮影、監督、編集を全て一人で作り上げたもので、特に『槌音』はスマートフォンで撮影したものであり、スマートフォンでこれだけのクオリティの映像作品が作り上げられるということがまず驚きかもしれない。

個人制作のドキュメンタリーであるが、これらの映画(映像)はいろいろなことを投げかけているように思う。具体的にどういうことを投げかけているのかと言われると、考えがまとまらないのだが、それもそのはずで、おそらく森元氏や大久保氏自身、被災地の状況を目の当たりにして、これをどのように受け止めればいいのか、考えや気持ちがまとまっていず、そのまとまらない思いをこそ作品にしようとしているのではないかとも思える。

それを端的に示すのは、『大津波のあとに』で、被災者にインタビューした後に、ふっと入る、カメラを持った森元氏自身が鏡に写った映像だろう。カメラを持った作り手自身が画面に登場するというのは、いわゆるセルフドキュメンタリーの手法だと言えるのかもしれないけど、では、この映像はセルフドキュメンタリーだと言えるだろうか? セルフドキュメンタリーというと、自己主張の強いもののように思えるけれども、この『大津波のあとに』で、津波に流された肉親を一生懸命、捜し続けている被災者の人達にインタビューした映像の後で、ふっと作り手自身の映像を挿入しているのは、自己主張というより、むしろ、圧倒的な被災地の現実を前にして、どうして自分は今、これを撮っているのか、そもそも自分に自らの作品のためにこうした被災者の人達を撮影する資格みたいなものがあるのだろうか・・という自問自答というのか、迷いみたいなものなのではないだろうか。だとすると、ここで作り手自身の映像が挿入されるのは、自己主張的なセルフドキュメンタリーとして、というよりも、こうした被災者の人達を撮影している自分はなんなのかという自問自答のようなものの表現として、と考えられる。ここに、一人で個人制作した作品でありながら、従来のセルフドキュメンタリーとはちょっと違うものを投げかけている映像があるように思えたのだ。

また、『大津波のあとに』で、ある被災者のおじさんが、高いところから惨状を見るだけではなく、実際に被災地を歩いてみて欲しい・・といったことをインタビューされて話しているシーンがあるのだが、そのおじさんはそういう意図で言ったわけではないのかもしれないけれども、このシーンは、映画を見ている観客の一人の自分自身に言われているような気がして、ちょっとドキリとした。つまり、こうした映画(映像)の観客として、「見ている」だけで、実際にそうした体験をしたわけでも、被災地を歩いたわけでもないのに、見ただけで何がしかが分かったような気になっている観客の一人である自分自身に対して言われたような気がしたのだ。こうした映画(映像)やテレビのニュースを見ただけで、分かったような気になってしまってはいけないのかもしれない・・とふと思った。
今、書いたことと矛盾するようだが、この『大津波のあとに』と『槌音』は、見る価値がある映画(映像)であるように思う。
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