2012/6/15

原田正純先生関連新聞記事(2)  公害・薬害・環境・医療問題

原田さん 弱者支え50年 県内から悼む声 水俣病患者「ありがとう」=熊本
2012.06.13 西部朝刊
 常に弱い者に寄り添う医者だった。水俣病の診察と研究に生涯をささげ、77歳で死去した元熊本学園大教授・原田正純さん。訃報から一夜明けた12日、仲間の研究者は涙ながらに偉業をたたえ、被害者たちは「ありがとう」と半世紀以上にわたる支援に感謝した。
 ■被害者たち
 原田さんは1972年に第1回国連人間環境会議が開かれたスウェーデン・ストックホルムで水俣病の被害実態を訴えたことがある。
 その際、傍らに立ち一緒に世界に向かって声を上げた胎児性患者の坂本しのぶさん(55)は12日、水俣市の通所施設「遠見の家」で記者団の取材に応じ、「いつもニコニコして何でも話ができる先生だった。本当に残念です。ありがとう。お疲れさま」とねぎらった。
 同市の別の通所施設で原田さんが理事を務めていた「ほっとはうす」では加藤タケ子施設長(61)が声を詰まらせた。「この1か月は毎週、胎児性患者たちを連れてお見舞いに行った。『元気をもらったよ』と終始、優しい笑顔で応じていた姿が忘れられない」
 この施設に通う胎児性患者の加賀田清子さん(56)は、自らの携帯電話で撮影し保存していた原田さんの写真に見入り、「あまりに早過ぎる」と涙を流していた。
 ■熊本学園大
 熊本学園大の水俣学研究センターでは同日、センター長の花田昌宣教授(59)が、穏やかに笑う原田さんの遺影を横に記者会見した。
 原田さんは1999年に熊本大を退官し、熊本学園大の教壇へと移った。2005年のセンター開設と同時にセンター長に就任。補佐役を務めたのが花田教授だった。
 以来、2人は手を携えて水俣病問題を医学、環境、法律などあらゆる分野からとらえる「水俣学」の研究や講義に取り組んできた。
 花田教授は時折、涙ぐみながら会見し、「『弱い者とともに』を軸とする反骨の人だった」と尊敬する故人をそう表現。さらに、水俣学について、「君たちが作り上げていくんだ」と言われたエピソードを紹介し、「気持ちを受け継ぎ、水俣病問題に取り組んでいきたい」と述べた。
 花田教授によると、原田さんは4月末に入院したが、5月6日に「自分の体になりゆきを任せたい」として退院。それ以来、輸血を受けながら自宅療養を続け、容体を聞きつけて来た人たちと面会していた。
 水俣病などの教訓を次世代の子供たちに伝える絵本の出版を企画していたが、かなわなかったという。
 ■行政関係者
 蒲島知事は12日、県庁で記者団の取材に応じ、「水俣病問題に一生涯をささげられた功績は非常に大きい。常識を覆して胎児性患者を発見し、水俣病を通して公害問題に世界的な貢献をされた。残念でならない」と語った。
 宮本勝彬・水俣市長は「まことに残念な思い。水俣病の発生当初から患者に寄り添い、患者を支えてこられた。原田先生のご意思を大切にしていかなければならない」とコメントを出した。
 同市立水俣病資料館は13日、原田さんの活動の記録を展示する追悼コーナーを設ける。入館は無料。
 ◆水俣病・CO中毒 法廷証言100回超
 原田さんが治療、研究に没頭したのは、水俣病だけでなく、炭じん爆発事故による一酸化炭素(CO)中毒や、ダイオキシン類による油症にも及んだ。
 1960年に医師免許を取得し、すぐに遭遇した水俣病。続いて目を向けたのは死者458人、CO中毒患者839人を出した旧三井三池炭鉱三川鉱(福岡県大牟田市)の炭じん爆発事故(63年)だった。
 当初からCO中毒患者の診察を続け、患者の脳波測定の結果をもとにCO中毒が脳に障害を残すことを医師団として突き止めた。
 自らも胃がんや脳梗塞を患いながら、事故に関する集会やシンポジウムで壇上に立ち続け、「三池の経験を未来に生かすことが患者、家族に報いるせめてもの手段」と訴えた。水俣病とCO中毒に関する訴訟で証人として法廷に立った回数は100回を超えた。
 CO中毒患者や家族、支援者らでつくる「三池高次脳連絡会議」議長の芳川勝さん(69)(大牟田市)は「診察だけでなく、患者の医療体制を整えるために一緒に上京して要望活動をしたこともある」と振り返った。
 また、北九州市のカネミ倉庫が製造した食用油にダイオキシン類が混入し、68年に表面化したカネミ油症問題では、「黒い赤ちゃん」とも呼ばれた胎児性油症患者を中心に検診にあたった。長崎県五島市の患者団体「カネミ油症五島市の会」の宿輪敏子事務局長(50)は「長年、患者に寄り添って被害の大きさや公的救済の必要性を訴えていただいた」と感謝の言葉を述べた。
 ベトナム戦争で散布された枯れ葉剤によるダイオキシン類被害を調査するため現地に赴いたこともある。
 写真=(上)水俣病胎児性患者たちと原田さん(左)(2010年5月1日、水俣市で) (下)原田さんの遺影を横に記者会見する花田教授
読売新聞社

穏やかな陽光のよう 原田正純さん死去
2012.06.13 朝刊 
 11日に77歳で死去した水俣病研究第一人者の医師、原田正純(はらだ・まさずみ)氏の「お別れ会」は14日正午から熊本市東区月出8の1の5、玉泉院・月出会館で営まれる。喪主は妻寿美子(すみこ)さん。
 原田氏は昨年、血液中の血小板が減り続ける病と診断され体調が悪化していた。晩年は「自分が見てきた水俣を子どもたちに伝えたい」と願い、絵入りの本の出版構想を抱いていた。13日には鹿児島県さつま町の母校の小学校で授業を予定していた。
 鹿児島県出身、熊本大医学部卒。水俣病公式確認5年後の1961年、熊大大学院時代に初めて水俣を訪れ、患者の診察と研究を続けた。63年の三井三池炭鉱(福岡県)炭じん爆発事故の一酸化炭素(CO)中毒患者やカネミ油症患者の診察にも当たった。72年には水俣病患者らを連れて第1回国連人間環境会議が開かれたスウェーデンで「ノーモア・ミナマタ」を訴えた。
 (重川英介)
 ●胎児性の子が「先生、先生」と甘えて… 作家・石牟礼道子さん
 「原田正純先生は誰に対しても優しく、楽しい人でした。先生の存在は穏やかな陽光のように、私の作品に投影しています」−。代表作「苦海浄土(くがいじょうど)」をはじめ、水俣を深いまなざしで表現し続けている作家石牟礼(いしむれ)道子さん(85)=熊本市=は、12日、長い交友のあった原田さんの死を悼んだ。2人は「水俣」を世に問うことで"戦友"だったように、記者には思われる。以下は、出会いからの記憶をたどった石牟礼さんの証言録である。
 初めて会ったのは、水俣病がまだ「奇病」と呼ばれていたころでした。最初、食中毒事件と言われていたので、熊本大の医師の先生方が原因を調べにおみえになった。その中に原田先生もおられた。まだ青年でしたが、胎児性の子どもたちがなついて、「先生、先生」と甘えていました。
 私は当時、役場にあった(奇病に関する)マル秘文書を読ませてもらっていた。患者が「おめき声を出して死んでいく」というような、すさまじい症状が書いてあった。私は、あまりのことに、(「奇病」について)書きとめておかずにおれなくなった。
 当時、亡くなった患者さんは(大学で)解剖されておられた。私はある程度書き進むうち、解剖を見たくなり、原田先生にそれをお願いした。幾つかの医学用語についてお尋ねもした。「そういうことを聞きに来た人は初めて」と言われた。
 私はそれを渡辺京二さんが出されていた「熊本風土記」に連載させてもらったら、原田先生が読んでおられて「医者の診断書より詳しく書いてある」と言われた。それで私はやや安心した。私はずっと、先生に読んでいただくのが喜びでした。
 先生は非常に開放的な方で、広い牧場に牛が放たれたように、人の心を伸びやかにし、遊ばせてくださいました。先生にかかれば気持ちが大変自由になる。そんなお人でした。寂しいですよね。 (島村史孝)
 ●病押して証言台に立つ 原田さん 生涯 患者に寄り添い
 原田正純さんは、いつも水俣病患者のそばにいた。漁村を歩き、胎児性患者の存在を知らしめたのが1962年。それから半世紀。近年は実態が解明されていない若い世代の被害者の闘いを後押しした。
 2007年に始まった熊本地裁の「水俣病被害者互助会」の裁判。原田さんは原告9人全員を診察し、病を押して証言台に立った。彼らは水俣病公式確認(1956年)から間もない時期に認定された患者たちの子ども世代。胎児・幼児期に受けた微量のメチル水銀の影響はなお未解明な部分が多く、頭痛やめまいに苦しんでいる。原田さんは「(被害者のため)挑まないといけない。最期の闘い」、そう話していた。
 5度に及ぶ証人尋問に臨んだ。自身が手掛けたカルテに基づき一つ一つ、原告たちを水俣病と診断した根拠を裁判官に説いた。
 互助会の谷洋一事務局長は「常に患者を見続け、被害の実態を証明してくれた。具合が悪くなれば夜中でも電話でやりとりできるのが先生だった」と振り返る。
 国は水俣病被害者救済法に基づく救済策の申請期限を7月末と決めている。だが原告たちはこれに応じず裁判を続ける。原告団長の佐藤英樹さん(57)は「先生の遺志をついで闘っていく」と語る。13日には26回目の口頭弁論がある。
 原田さんが症状を確認した胎児性患者たちも12日、記者会見で思い出を語った。
 金子雄二さん(56)は「子どものころ先生が話し掛けてくれ、自分のことを本にしてくれた」と話した。長井勇さん(55)は「具合が悪くなったとき、原田先生が主治医に『この人は水俣病だから慎重に治療してくれ』と話してくれた」。
 加賀田清子さん(56)の携帯電話の待ち受け画面は原田さんの笑顔だ。「いつも先生が応援してくれた。一生懸命生き抜きたいです」。そう誓った。 (重川英介)
 ●カネミ油症患者救済にも尽力
 ▼原田正純さんが証言台に立ったカネミ油症訴訟原告弁護団の高木健康弁護士(北九州市)の話 カネミ油症や水俣病のように前例のないものをこれまでの理屈で割り切ってはだめで、患者から実情を学ぶべきだと訴えていた言葉を覚えている。油症患者が抱える多くの特異症状を一つ一つすくい上げ、彼らの厳しい状況を明らかにしてくれた。カネミに限らず多くの(公害病の)症状で苦しむ人たちを発掘し、救済運動の原動力になった人。とても残念です。
 ●三池炭じん爆発事故CO患者 「教えを受け継ぐ」決意
 原田正純さんが水俣病と並んで生涯をささげた仕事に、三井三池炭鉱の炭じん爆発事故による一酸化炭素(CO)中毒患者の支援がある。1963年11月、死者458人を出した「戦後最悪の労災事故」は来年、発生から50年を迎える。今も後遺症に苦しむ患者やその家族は「もっと力を借りたかった」と悔やんだ。
 「家族みたいに身近な存在だった」。入院が続く夫を看病する熊本県荒尾市の清水栄子さん(82)は涙を浮かべた。十数年前、病院から一時帰宅した夫の正重さん(87)の診察に訪れた原田さんは「指を曲げて」「背広を着てごらん」と語り掛け、うまくできない正重さんを見て「これがCO中毒の後遺症」と丁寧に説明してくれたという。
 患者の追跡調査に心血を注ぎ、毎年11月の抗議集会に参加して国や企業の責任を追及した原田さん。昨年の集会では「三池の歴史を後世に伝え、世界の教訓にしなければ」と繰り返し訴えた。患者として企業の責任を問う法廷闘争を続けた荒尾市の沖克太郎さん(72)は「医者は患者から学ぶ。それが口癖だった」と振り返り「教えを受け継いでいかなければ」と自らに言い聞かせた。 (古川幸太郎)
西日本新聞社

熊本県/水俣病究明 生涯ささげ 原田正純さん死去 「一番の頼りが…」 県内関係者も惜しむ声
2012.06.13 朝刊 
 水俣病研究の第一人者、原田正純さんが11日夜、熊本市東区の自宅で亡くなった。77歳。医師として研究者として、常に患者の立場で水俣病にかかわり続けた生涯だった。関係者からは、その死を惜しむ声が相次いだ。
 原田さんが顧問を務めていた同市の熊本学園大水俣学研究センターは12日、記者会見を開いた。センター長の花田昌宣教授は「原田先生はいつも、次の世代の子どもたちに水俣病を伝えたいとおっしゃっていた。先生がやり残したことを僕たちが続けていきたい」と語った。
 原田さんは昨年9月、血液中の血小板が減り続ける病気と診断された。花田教授によると、11日は昼、病院で輸血を受けて帰宅したが、夕方ごろから息が乱れる状態に。最期は妻の寿美子さん(68)や2人の娘たちに見守られ、孫の手を握ったまま自宅で静かに息を引き取った。家族の呼び掛けには最期まで、うなずいていたという。
 晩年は「次世代へのメッセージ」と言い続けた。水俣病の教訓を子どもたちに伝えようと、絵本の出版も計画し、13日は鹿児島県さつま町の母校の小学校で出張授業を予定していた。
 胎児性水俣病の存在を初めて明らかにした人でもある。幼いころから原田さんの検診を受けていた水俣市の胎児性患者、坂本しのぶさん(55)は「何でも話せる先生だった。真剣に私たちの話を聞いてくれて、一番頼りにしていた。長い間、頑張ってくれてありがとう」と話した。
 胎児性・小児性患者が通う同市の支援施設「ほっとはうす」でも12日、患者とその家族8人が原田さんとの思い出を語り合った。加藤タケ子施設長は「最もお世話になった先生。今は混乱して、なかなか言葉にできない」。胎児性患者の永本賢二さん(52)は「先生は月の光になったのかな。ずっと天国から胎児性患者の皆の幸せを見守ってほしい。77歳はまだ若い。100歳まで生きてほしかった」と語った。
 支援者たちも悲しみに暮れた。水俣病センター相思社の弘津敏男理事(61)は「患者を救いたいという強い信念があった。気さくな人柄で、どの患者にも笑顔で接する。大勢の未認定患者の検診も、原田さん以外には務まらなかったのではないかと思う」。認定患者団体「チッソ水俣病患者連盟」の高倉史朗事務局長(60)は「覚悟はしていたが、いざ亡くなると…。水俣の被害者は先生に頼るしかなく、訴訟も患者側の医者として闘ってくれた。患者が頼りにできる人がいなくなった」と肩を落とした。
 ●荒尾市のCO患者遺族 「先生が支えだった」
 「これから誰を頼っていけばいいのか」。荒尾市本井手の塚本ミスエさん(86)は12日、2年前に亡くした夫正勝さん=当時(83)=と原田正純さんの交流を振り返り、言葉を詰まらせた。正勝さんは1963年の三池炭鉱炭じん爆発で一酸化炭素(CO)中毒となり、原田さんから検診を受けたという。
 ミスエさんによると、2003年秋頃にあった事故から40年目の検診で、CO中毒の研究もしていた原田さんは、長年の闘病生活で笑顔を失いかけた正勝さんを励まし、歩行訓練をアドバイスしたという。ミスエさんは当時のスナップ写真を手に「夫も家族も先生が支えだった」。
 正勝さんは10年7月に亡くなった。ミスエさんが夫の労災認定の申請準備を進めると、原田さんは「死因は、炭じん爆発によるCO中毒が起因」と記した意見書を作成。「認定されなかったが、先生は最後まで応援してくれた」とミスエさん。三池CO現地共闘会議(荒尾市)の織田喬企(たかき)代表(72)は「自分の病気も顧みず患者と家族を支えた。ノーベル賞ものだ」と振り返った。
    ×      ×
 ●早過ぎるご逝去、残念
 ▼蒲島郁夫知事の話 水俣病問題に生涯をささげ、その功績は大きかった。早過ぎるご逝去、残念でならない。水俣病を通して公害問題に世界的な貢献をされた。自分のキャリアをかけて水俣病問題に取り組まれてきた。人間として尊敬していた。
 ●患者に寄り添い支えた
 ▼宮本勝彬・水俣市長の話 水俣病の発生当初から患者に寄り添い、支えてこられた。環境汚染や公害問題については、国内にとどまらず国際的にも貢献されている。まだまだ、ご活躍いただけると思っていましたので、本当に残念です。
 ●油症患者救済にも尽力
 ▼原田正純さんが証言台に立った2009年のカネミ油症訴訟原告弁護団の高木健康弁護士(北九州市)の話 カネミ油症や水俣病のように前例のないものをこれまでの理屈で割り切ってはだめで、患者から実情を学ぶべきだと訴えていた言葉を覚えている。油症患者が抱える多くの特異症状を一つ一つすくい上げ、彼らの厳しい状況を明らかにしてくれた。カネミに限らず、多くの(公害病の)症状で苦しむ人たちを発掘し、救済運動の原動力になった人。とても残念です。
西日本新聞社

評伝・原田正純さん 貫いた精神の自由 死亡 死去
2012.06.13 朝刊 
◆記事イメージの表示
 折れない葦[あし]のような人だった…。
 半世紀以上も水俣病と向き合い続けた医師の原田正純さんが11日、亡くなった。77歳。どんな強風にも折れることなく、しなやかに揺れる一本の葦。か細くも見える葦の真ん中を貫いていたのは、権威におもねらない精神の自由さ、だった。
 「僕はもう、データ上は死んでいるんだよ」。お地蔵さんのような笑顔でそう言った。亡くなる10日ほど前のことだ。2度にわたるがん、脳梗塞を克服。しかし今度の急性骨髄性白血病は少しずつ体の力を奪っていった。患者としての自身のデータを見る目は、医師の目だった。
 胎児性水俣病の確認など原田さんの研究は深く、広い。最近の面目躍如は、溝口訴訟の控訴審。
 亡くなった母親の水俣病認定申請を熊本県が放置、21年後に棄却したのは違法だと次男が訴えた裁判。福岡高裁は、原告敗訴の一審判決を取り消し、逆転勝訴とした。原田さんはこの裁判で、「環境病跡学」と名付けた論を展開したのだった。
 病跡学は精神医学で、特定の人物の性格や行動を背景事情や歴史を踏まえて分析、研究する分野。原田さんは、濃厚汚染された地域で住民がどれほど多くの魚を食べていたかを追跡、立証し、母親を水俣病と診断した。研究室ではなく、現場を見続けた原田さんの証言が裁判所を突き動かしたのである。
 演劇、絵画など趣味も広く、無類の話好き。よく笑った。若いころは酒を飲んでの失敗もあり、兄貴分を自称した先輩医師・故三村孝一さん(元城ケ崎病院長)を交えた酒席はその話で盛り上がった。2人は三池CO(一酸化炭素)中毒患者の診察、実態調査でスクラムを組む。水俣病、CO中毒、カネミ油症。社会が生んだ病と向き合うことで、原田さんは社会の側の病を見抜いた。
 原田さんに対し、医学の議論なのに社会学の立場から発言をするといった批判もあった。しかし、これはむしろ批判する側の限界を示していたのではないか。水俣病を医学の問題に閉じ込めてしまったことへの痛切な反省が、熊本学園大での「水俣学」開講となった。誤りを訂正することに躊躇[ちゅうちょ]はなかった。
 5月1日、水俣病公式確認56年に当たり原稿を寄せてもらった。第1号患者の女性が今もひっそり生きていることを軸とした原稿は、事件を起こした側が反省もせず、被害者が忘れられていく現状を批判していた。絶筆となったが、いつもの原稿のトーンと違い、強い怒りが感じられた。自らの生の今後を自覚してのことだったか。
 最後の訪問となった日。話を終え辞去しようとすると、「いい人と巡り会えた人生だった」と笑われた。「いえ、いい人と出会えたのは私たちの方ですよ」と言いかけたが、言葉にならなかった。やや逆説的な言い方になるが、長い水俣病史の中に、原田さんがいたことで少しは救いがあったのではないかとも思う。(論説委員長 高峰武)
熊本日日新聞社

社説=原田正純さん死去 水俣病から学ぶべきこと/シリア情勢 国際社会が協調し打開を
2012.06.13 朝刊 
◆記事イメージの表示
 ●原田正純さん死去 水俣病から学ぶべきこと
 水俣病研究の第一人者で医師の原田正純さんが死去した。一貫して患者の側に立ち、広く公害根絶を訴えた生涯から、私たちが受け継がなければならない大切な視点は多い。
 一つは、「被害者に学ぶ」という姿勢だ。
 水俣に通い始めた原田さんは多くの障害児に接したが、当初は母親の胎内で有機水銀を摂取した胎児性患者とは思い至らなかった。当時、胎盤は有害物質を通さないというのが医学の定説だったからだ。だが、母親が子どもたちを前に「ほら、みんな一緒でしょ」と訴えた言葉がきっかけとなり、原田さんは「胎盤を通じた水俣病」を立証。胎児性患者認定へ道を開いた。被害者に学ぶ姿勢はその後も貫かれた。
 二つ目は、社会の病理にも目を向ける視点だ。
 原田さんは「水俣病の原因のうち、有機水銀は小なる原因であり、チッソが流したことは中なる原因であるが、大なる原因ではない。根本的な原因は人を人と思わない、相手の立場になって考えようとしない差別の構造だ」と述べていた。
 水俣病は単に原因企業と患者の間に起きたのではなく、背景にそれを発生させる社会構造があったという洞察である。その問題提起は行政だけでなく、地域社会を構成する私たち一人一人にも向けられていよう。
 そこから原田さんは三池炭鉱CO(一酸化炭素)中毒、カネミ油症、土呂久鉱毒、スモンなど多くの公害、薬害事件の現場に足を運ぶ。カナダ先住民やブラジル・アマゾン川の水銀中毒、インド・ボパールの農薬中毒など世界の現場も訪れ、「公害が起こって差別が生まれるのではなく、差別のあるところに公害が起きる」という確信に行き着く。
 専門家の役割に対する原田さんの厳しい視線も忘れてはならない。水俣病では「専門家の判断を盾に患者認定が切り捨てられてきた」という原田さん。その疑いの目は、昨年来の原発事故に対しても注がれた。専門家の1人が「放射性物質が海に流れ出ても薄まるので問題ない」とコメントするのを見た原田さんは、「海では有害物質が食物連鎖を経て濃縮され、人間を侵す。水俣病から何も学んでいない」と憤った。
 水俣病は今なお終わっていないが、その失敗の経験から学ぶ大切さを原田さんは行動で示し続けた。今あらためて水俣病から何を学ぶべきかを自らに問い掛ける姿勢が、私たちに求められている。
熊本日日新聞社

原田氏死去/油症告発にも尽力/患者から惜しむ声/五島
2012.06.13 
 「カネミ油症は原爆、水俣病に匹敵する人類初めての経験だ」−。11日死去した水俣病研究の第一人者、原田正純氏は、本県に被害者が多いカネミ油症でも1970年代から患者たちに寄り添い、油症被害を医療の側面から社会に告発し続けた数少ない医師だった。
 被害が特に集中する五島市に通い、自主検診などを重ね、被害実態を把握。福岡地裁小倉支部で係争中の油症新認定訴訟では2009年、原告側証人として出廷し、患者の病状は一層悪化しているとして被告のカネミ倉庫側と対立した。
 訃報を聞いたカネミ油症五島市の会の宿輪敏子事務局長(50)は、原田氏の功績をたたえて感謝状を贈る予定だったことを明かした。「命懸けで油症の研究、実態調査に尽力し、国の対応を非難して『被害者に学ぶべきだ』と繰り返し主張していただいた。偉大な先生でした」と声を震わせた。
 新認定訴訟原告団長の古木武次さん(82)=同市奈留町=は「裁判では証人として被害者の苦しみを訴えてもらった。体調がすぐれないのに奈留島まで来て患者を診てくれた。もう一度、診察してほしかった」と言葉を詰まらせた。
 (後藤洋平、山田貴己)
長崎新聞社

弱者救済、最後まで/「胎児性」を発見、水銀汚染の怖さ発信=原田正純医師、死去
2012.06.13 朝刊 
 「患者に寄り添う」―。水俣病をはじめとする原田正純さんの半世紀にわたる研究者人生は、弱者と同じ目線に立つ姿勢が貫かれた。
 熊本大学大学院生だった1961年、原田さんは初めて水俣を訪問。貧困と差別で、隠れるように暮らす患者宅を1軒ずつ回りながら、運命的な出会いをする。地元で「宝子(たからご)」と呼ばれた胎児性患者の存在だった。
 縁側で遊んでいた幼い兄弟は、有機水銀に汚染された魚を食べていないことを理由に、弟は患者に認められていなかった。「私が食べた魚の水銀は、おなかの中でこの子が吸い取ってくれたに違いない」。母親の言葉を元に症例を集め、胎盤は毒物を通さないという定説を覆し、胎児性水俣病を立証した。
 「現場で事件を目撃した責任がある」。こう語る原田さんは、潜在患者の掘り起こしに尽力。未認定患者による損害賠償請求訴訟でも「企業の責任逃れと行政の怠慢だ」と、チッソや国、熊本県を厳しく非難した。複数の症状の組み合わせを求め、結果的に患者を限定した認定基準を改め、広く認めるよう訴えた。
 著書も多く、72年に出した「水俣病」(岩波新書)は40刷り以上を数え、海外でも翻訳された。原田さん自身も海外に足を運び、カナダ先住民居留地やブラジル、中国などで水俣病の疑いのある患者を発見した。
 活動は内外で称賛され、97年には南日本文化賞を受賞した。受賞インタビューで、原田さんは「科学技術の進歩で人間は便利さを追い求めた。その代償は貧しい漁民など自然の中で生きる人々、社会的弱者が負った」と述べ、現代社会の矛盾を鋭く突いた。
 99年に熊本学園大学教授に就くと、水俣病問題を医学だけでなく総合的に研究する「水俣学」を開講。講演や文筆活動を精力的に続け、昨年の福島原発事故では「被害を受けるのは常に弱者だ」と語るなど、ミナマタの悲劇を繰り返さないため最後まで走り続けた。
 ●原田正純さんの歩みと水俣病史
(■印は原田さんの歩み)
■1934年 出生
■  45 熊本大空襲で母が死亡、父方の祖父母に引き取られ、宮之城町(現さつま町)へ
■  50 ラ・サール高入学
■  53 熊本大学医学部入学
   56 水俣病公式確認
   59 熊大水俣病研究班が有機水銀説を公表
■  61 水俣で現地調査
■  62 熊本医学会で胎児性水俣病の存在を発表
   68 政府が「水俣病はチッソ工場から排出されたメチル水銀が原因」との見解、公害病と認定
■  69 川本輝夫さん(故人)と出会い、患者掘り起こしへ
   71 環境庁(現環境省)が発足
■  72 第1回国連人間環境会議(ストックホルム会議)に参加
   73 水俣病第1次訴訟で患者側勝訴
■  74 長崎県五島でカネミ油症患者を調査
■  75 水銀汚染が問題になっていたカナダ先住民居留地を訪問
   77 環境庁が水俣病の認定基準を厳格化
■  80 中国で水俣病調査
■  85 インド訪問
      第2次訴訟控訴審で患者側が勝訴
■  87 ベトナム訪問
      3次訴訟第1陣判決で、国と熊本県の責任が認められる
■  88 ベトナムで枯れ葉剤影響調査
■  89 「水俣が映す世界」が大佛次郎賞
   90 東京訴訟で東京地裁が全国初の和解勧告
■  92 ブラジル・アマゾン訪問
   95 未認定患者を救済する政府解決策を閣議決定
■  97 南日本文化賞受賞
■  99 熊本学園大学教授に就任
■2001 吉川英治文化賞受賞
   04 関西訴訟で最高裁が国、熊本県の責任を認定
   05 不知火患者会が提訴
   09 未認定患者救済の特措法成立
   11 各地の集団訴訟で和解が成立し終結
■  12・6・11 急性骨髄性白血病で死去
南日本新聞社

原田正純さん死去 水俣病研究の第一人者
2012.06.12 東京朝刊 
 水俣病研究の第一人者で、半世紀を超える研究や被害者の診療にあたり、有機水銀が胎盤を通じて子どもに伝わる胎児性水俣病を突き止めた元熊本学園大教授で医師の原田正純(はらだ・まさずみ)さんが11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため死去した。77歳だった。葬儀の日取り、喪主は未定。▼38面=評伝
 1934年生まれ、鹿児島県育ち。熊本大で医師免許を取った翌年の61年、熊本県水俣市で水俣病の調査を開始。「胎盤は毒物を通さない」という当時の常識を覆し、母親の胎内で有機水銀に侵されて起こる胎児性水俣病を突きとめた。
 周辺の不知火海一帯を歩いて診察し、被害の広がりの解明にも貢献。全国の水俣病裁判では、一貫して被害者の立場に寄り添って証言を続けた。
 また、戦後最悪の炭鉱事故で、458人の命が奪われた63年の三井三池炭鉱(福岡県大牟田市)の炭じん爆発では、一酸化炭素中毒患者を40年間追跡し、「後遺症はほぼない」とする教科書の誤りを正した。
 国内最大の食品公害のカネミ油症でも長崎県五島市などで被害を調べ、患者救済に向けた世論を喚起。ベトナムの枯れ葉剤被害の日越共同研究の代表も務め、88〜89年に地元の医師らと7400人以上の住民健康調査を行い、被害を明らかにした。
 99年に熊本大を助教授で退官。熊本学園大に移り、水俣病の歴史から学際的に教訓を学ぶ「水俣学」を02年に開講し、初代の水俣学研究センター長に。カナダやブラジルなど世界の水銀汚染の調査経験を踏まえ、06年に同大で環境被害に関する国際フォーラムを開き、警鐘を鳴らした。
 胎児性水俣病の研究で日本精神神経学会賞(65年)、「水俣が映す世界」で大佛次郎賞(89年)、国連環境計画のグローバル500賞(94年)、水俣病研究を通した学際的な「水俣学」の提唱と深化で朝日賞(10年度)。著書に「水俣病」「炭じん爆発」などがある。
朝日新聞社

「原田さん弱者と生きた」 関係者ら死去悼む
2012.06.12 西部夕刊 
 ◆水俣病胎児性患者・坂本さん「ありがとう」
 水俣病研究の第一人者だった元熊本学園大教授・原田正純さん(77)の死去から一夜明けた12日、ともに研究を続けてきた同大水俣学研究センター長の花田昌宣教授(59)が記者会見し、「『弱い者とともに』を軸とする反骨の人だった」としのんだ。
 熊本市のセンターで午前10時から始まった会見の席には、穏やかに笑う原田さんの遺影が置かれた。
 花田教授は、原田さんから水俣病問題を医学、環境、法律などあらゆる分野からとらえる「水俣学」について「君たちが作り上げていくんだ」と言われたエピソードに触れ、「気持ちを受け継ぎ、水俣病問題に取り組んでいきたい」と述べた。
 花田教授によると、原田さんは4月末に入院したが、5月6日に「自分の体になりゆきを任せたい」として退院。それ以来、輸血を受けながら自宅療養を続け、容体を聞きつけて来た人たちと面会していた。水俣病などの教訓を次世代の子供たちに伝える絵本の出版を企画していたが、かなわなかったという。
 1972年に第1回国連人間環境会議が開かれたスウェーデン・ストックホルムで原田さんと水俣病の被害実態を訴えた胎児性患者の坂本しのぶさん(55)は12日、熊本県水俣市の通所施設で母フジエさん(87)らと記者団の取材に応じた。
 坂本さんは「いつもニコニコして何でも話ができる先生だった。本当に残念です。ありがとう。お疲れさま」とねぎらい、フジエさんは「患者の仲間みたいに何でも話せた。私たちにとって本当に大事な人だった」と話した。
 蒲島郁夫知事は熊本県庁で記者団に「水俣病問題に一生涯をささげられた功績は非常に大きい。常識を覆して胎児性患者を発見し、水俣病を通して公害問題に世界的な貢献をされた。残念でならない」と語った。
    ◇
 お別れの会は14日正午、熊本市東区月出8の1の5玉泉院月出会館。喪主は妻、寿美子(すみこ)さん。
 ◆水俣病CO中毒 法廷証言100回超
 原田さんが治療、研究に没頭したのは、水俣病だけでなく、炭じん爆発事故による一酸化炭素(CO)中毒や、ダイオキシン類による油症にも及んだ。
 1960年に医師免許を取得し、すぐに遭遇した水俣病。続いて目を向けたのは死者458人、CO中毒患者839人を出した旧三井三池炭鉱三川鉱(福岡県大牟田市)の炭じん爆発事故(63年)だった。
 当初からCO中毒患者の診察を続け、患者の脳波測定の結果をもとにCO中毒が脳に障害を残すことを医師団として突き止めた。
 自らも胃がんや脳梗塞を患いながら、事故に関する集会やシンポジウムで壇上に立ち続け、「三池の経験を未来に生かすことが患者、家族に報いるせめてもの手段」と訴えた。水俣病とCO中毒に関する訴訟で証人として法廷に立った回数は100回を超えた。CO中毒患者や家族、支援者らでつくる「三池高次脳連絡会議」議長の芳川勝さん(69)(大牟田市)は「患者の医療体制を整えるため一緒に上京して要望活動をしたこともある」と振り返った。
 また、北九州市のカネミ倉庫が製造した食用油にダイオキシン類が混入し、68年に表面化したカネミ油症問題では、「黒い赤ちゃん」とも呼ばれた胎児性油症患者を中心に検診にあたった。ベトナム戦争で散布された枯れ葉剤によるダイオキシン類被害を調査するため現地に赴いた。長崎県五島市の患者団体「カネミ油症五島市の会」の宿輪敏子事務局長(50)は「長年、患者に寄り添って被害の大きさや公的救済の必要性を訴えていただいた」と感謝の言葉を述べた。
 写真=水俣病犠牲者慰霊式とは別に行われた慰霊祭に出席した原田正純さん。右は胎児性水俣病患者の坂本しのぶさん(2010年5月1日、熊本県水俣市で)=板山康成撮影
読売新聞社
0



コメントを書く


名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ