2012/6/15

原田正純先生関連新聞記事(3)  公害・薬害・環境・医療問題

水俣病 寄り添い半世紀 原田正純さん 胎児性の存在証明
2012.06.12 西部朝刊
 半世紀にわたって水俣病の究明に尽力し、被害者に寄り添ってきた元熊本学園大教授の原田正純さん(77)が11日亡くなった。母親の胎内でメチル水銀を摂取した胎児性患者の存在を証明した功績は大きく、身近に接した人たちからはその死を惜しむ声が相次いだ。〈本文記事1面〉
 被害者団体「チッソ水俣病患者連盟」の高倉史朗事務局長(60)は原田さんと知り合って37年。
 原田さんは最近、入退院を繰り返しており、5月下旬に最後のお別れを覚悟し、原田さんの自宅を訪ねた。
 病床の原田さんに「大変おこがましいが、私も命ある限り、先生のように水俣病のことをやっていきます」と伝えると、「高倉君、頑張ってくれ」と声を振り絞るように語ったという。
 原田さんは2009年、被害者と医師らが不知火海沿岸で1000人以上の住民健康調査を実施した際には実行委員長を務め、自らも離島で診断にあたった。
 高倉さんは「頼れる専門家が少ないなかでいつも先生が支えてくれた。いくら感謝してもしきれない」と声を落とした。
 水俣病訴訟では、何度も患者側の証人として法廷に立った。
 被害者団体「水俣病被害者互助会」の佐藤英樹会長(57)は「水俣病患者を初めて見た時に心を打たれた」という原田さんの言葉を覚えている。「医者としても人間としてもとても立派な方。被害者にとって一番大きな力だった」と語った。
 胎児性患者の永本賢二さん(52)(熊本県水俣市)は幼い頃から、熊本から通ってくる原田さんに診察してもらった。「小さい頃はよくあめ玉をもらった。患者と認定されたのは先生のおかげ。恩人が亡くなってさみしい」と漏らした。
 ◆カネミ油症も尽力
 原田さんは1968年に食用油にダイオキシン類が混入したカネミ油症問題でも、福岡県や長崎県の被害者を精力的に訪ね、診察にあたった。問題発覚の数年後には「化学物質汚染の影響は20年、30年と続く」と語っていたといい、認定患者の矢野忠義さん(79)(福岡県小郡市)は「先生に教わったことが救済運動の原動力になった。多くの医師が患者認定されていない被害者には見向きもしなかった時も、分け隔てなく丁寧に応対してくださった」と振り返った。
 写真=住民健康調査で診断にあたる原田さん(2009年9月20日、熊本県水俣市で)=大石健一撮影
読売新聞社

原田正純さん死去:「水俣の教訓、次世代へ」 最後まで意欲−−熊本学園大会見
2012.06.12 西部夕刊 
 11日に77歳で死去した水俣病研究の第一人者の医師、原田正純さんが10年までセンター長を務めた熊本学園大水俣学研究センター(熊本市中央区)は12日、原田さんのお別れ会を14日正午から、熊本市東区月出8の1の5の玉泉院月出会館で行うと発表した。喪主は妻寿美子(すみこ)さん。現センター長の花田昌宣教授らが記者会見し、原田さんの功績をたたえ、死を悼んだ。
 同センターによると、お別れ会は原田さんの遺志で無宗教の自由葬で営まれるという。
 記者会見した花田教授は「原田先生は最後まで『水俣病の教訓を次世代、特に子供たちに伝えたい』と意欲を燃やしていた」と話し、原田さんが子供向けの内容の本など執筆活動も精力的に続けていたことを明かした。10年に血液のがんと診断されたが、最近は自身の意思で抗がん治療を受けず、輸血を受けながら自宅で静養していたという。
 花田教授によると、11日は夕方まで意識がはっきりしており、椅子に座って庭を眺めながら寿美子さん(68)に「庭がきれいね、ありがとう」と言葉をかけた。最期は寿美子さんや2人の娘、弟に看取られてベッドで息を引き取った。
 また水俣病被害者救済特措法の申請期限を政府が7月末に区切るなど水俣病を取り巻く状況について、原田さんは「原点を忘れている。水俣病の原点に立ち返れば、行政は今どんなばかなことをしているか分かるはずなのに」と憤りを隠さなかったという。
 一方、原田さんは1968年に西日本一帯で起きた国内最大の食品公害「カネミ油症」の自主検診にも尽力した。長崎県の被害者団体「カネミ油症五島市の会」の宿輪敏子事務局長(50)によると、原田さんの功績に対して同会として感謝状を贈ろうと考えていた矢先の訃報だったという。宿輪さんは「ここ2、3年はがんを患いながらも何度も五島に来て、たくさんの被害者から聞き取りをして命がけで調査をしてくれた。こんなに早く亡くなるとは思っていなかった。ショックです」と語った。【取違剛、遠山和宏】
毎日新聞社

原田正純さん死去:常に患者の立場から 「胎児性」の存在証明
2012.06.12 西部朝刊 
 医師として長年にわたり水俣病医学の研究に携わった原田正純さん(77)が11日夜、亡くなった。母親の胎盤を通じて水銀汚染を受けた胎児性水俣病患者の存在を明らかにし、常に患者の立場から水俣病問題を見つめ続けた。原田さんを知る患者や関係者らからは惜しむ声が相次いだ。
 水俣病胎児性患者の永本賢二さん(52)=熊本県水俣市=は約50年前、まだ胎児性患者の存在が明らかになっていない頃から原田さんに診察してもらっていた。「体が痛くてものすごくきつかったが、原田先生はいつも真剣に診察してくれた。原田先生が診てくれたから私たち胎児性患者の存在が認められた。ありがとうという言葉しかありません」と惜しんだ。
 水俣病を巡る最初の裁判となった1次訴訟原告で胎児性患者の坂本しのぶさん(55)=水俣市=は「私が子どものころから何でも話を聞いてくれる先生だった。5月に自宅にお見舞いに行ったら1次訴訟のころの懐かしい話になった。思ったよりお元気そうだったけど、やはり心配していた。亡くなったと聞いて、頭の中がボーっとしている」と話した。
 原田さんは晩年まで水俣病認定基準を巡る裁判に原告側証人として積極的に参加した。「水俣病は医学的には一つしかない。認定制度や95年の水俣病政治決着、今回の水俣病救済特別措置法と、水俣病患者が幾つにも分かれていることがおかしいんだ」。政治や制度に翻弄(ほんろう)される水俣病問題をそう断じた。
 水俣病被害者互助会の佐藤英樹会長(57)=水俣市=は「5月27日に原田先生の自宅でお会いしたばかりだった。当時は顔色も良く『熱が出なくなったら、もう一度水俣に行きたい』と話していた。患者への思いが伝わる言葉だった。亡くなったと聞き、本当にショックだ」と話した。
 ◇裁判に痛手か
 水俣病1次訴訟の支援組織「水俣病研究会」の発足(69年)以来の付き合いという丸山定巳・熊本学園大教授(環境社会学)=熊本市=は「医学者の中で最も水俣病の現実と対面してきた人。事実から出発する姿勢を貫き、現場に足を運んで胎児性患者の存在を証明した。もし彼がいなければ、水俣病に関する医学が進まなかっただろう。専門的立場で証明してくれた彼の死は、今後の裁判にとっても痛手となるかもしれない」と話した。
 「科学者の良心を失った思いで非常に残念」。作家、石牟礼道子さんについての作家論や文芸批評をまとめた「石牟礼道子の世界」(弦書房)編者で原田さんと交流があった熊本大学法学部の岩岡中正教授(政治思想史)はそう惜しんだ。「水俣病問題を世界的レベルの研究に広げ、ジャンルを超えた文明論にまで高めた稀有(けう)の研究者だった。人間への愛情と信頼を持ってヒューマニズムを貫いた本当の意味での科学者だった」と振り返った。
 ◇原発にも言及
 原田さんは水俣病との半世紀に及ぶ関わりの中から、科学技術や学問、政治社会のあり方を考える「水俣学」を提唱し、熊本学園大学で「水俣学講義」を開設。昨年12月の毎日新聞のインタビューでは「原因企業のチッソは『有機水銀の人体への影響は不明で予防しようがなかった』と主張したが、未知イコール安全ではない。原発事故も同じだ」と原発の問題についても言及した。
 先月11日、原田さんのお見舞いのために熊本市内の自宅を訪れたカネミ油症新認定訴訟弁護団の保田行雄弁護士(60)=東京都=は「さまざまな症状が表れるために病気のデパートといわれるカネミ油症では常に患者の立場で原因を究明した。原田先生の診断がなければ現在の新認定訴訟はなかった。偉大な医学者を亡くした」と語った。
毎日新聞社

訃報:原田正純さん 77歳=水俣病研究の第一人者
2012.06.12 東京朝刊 
 医師として水俣病患者の診療や公害問題の解決を訴え、水俣病研究の第一人者だった原田正純(はらだ・まさずみ)さんが11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市東区長嶺南7の1の30の自宅で亡くなった。77歳だった。(社会面に関連記事)
 鹿児島県出身。鹿児島のラ・サール高、熊本大医学部を卒業、熊本大大学院神経精神科教室へ入った。水俣病公式確認(1956年)から約5年後の61年、現地調査のため初めて熊本県水俣市を訪れ、母胎内で有機水銀を浴びた胎児性患者に接した。当時の医学で胎盤は化学物質を通さないとされていたが、症例を集め62年胎児性水俣病の存在を立証した。
 患者29世帯が原因企業チッソ(東京)に損害賠償を求めた水俣病1次訴訟の原告支援を目指した水俣病研究会に参加し、73年の原告勝訴判決(熊本地裁で確定)につなげた。72年、スウェーデンのストックホルムで開かれた第1回国連人間環境会議に胎児性患者らと乗り込み、公害被害を世界に伝えた。
 カナダの先住民や中国での水銀被害、ベトナム戦争での米軍の枯れ葉剤使用に伴うダイオキシン被害の実態調査など海外での公害調査に携わった。国内でも63年の三井三池炭鉱(福岡県大牟田市)炭じん爆発事故に伴うCO(一酸化炭素)中毒やカネミ油症患者の診療に尽くした。
 医学以外に広い分野から水俣病問題を考える「水俣学」を提唱した。潜在患者の広がりを示すため09年9月、不知火海沿岸住民約1400人を対象に実施された水俣病一斉検診にも実行委員長として参加するなど晩年まで水俣病問題とかかわり続けた。
 72年に熊本大助教授、99年に熊本学園大教授。主な著書に「水俣病」「水俣が映す世界」など。【西貴晴】
毎日新聞社

原田正純さん死去:胎児性水俣病を確認 「患者から学ぶ」貫き
2012.06.12 東京朝刊 社会面 
 水銀汚染の恐ろしさを世界に知らしめ水俣病やカネミ油症患者の医療にも携わり、国内外の公害問題で活発な発言を続けた原田正純さん(77)。胎児性水俣病を確認して50年の節目の死に、関係者から惜しむ声が相次いだ。
 4月23日に原田さんの自宅を訪ねたNPO法人「水俣フォーラム」(東京)の実川(じつかわ)悠太事務局長は「病床でも『患者さんを1人にしちゃいかん』と繰り返した」と振り返り「患者から学ぶ姿勢を貫き、それが差別され医療に対する信頼を失いつつあった患者の救いとなった」とその死を惜しんだ。
 約50年前、原田さんの診察を受けた水俣病胎児性患者の永本賢二さん(52)=熊本県水俣市=は「体が痛くてものすごくきつかったが、原田先生はいつも真剣に診察してくれた。先生が診てくれたから私たち胎児性患者の存在が認められた。ありがとうという言葉しかない」と語った。
 また、研究を共にした中地重晴・熊本学園大学教授(環境化学)は「本当にまじめな先生で公害被害者の立場に立ち、体制側に取り込まれないという信念を貫かれた。生き方を尊敬している。皆で先生の思いを継ぎ、被害者の救済につなげていきたい」と話した。
 公害研究を通じて約25年前から原田さんを知る津田敏秀・岡山大大学院教授(疫学)は「いろいろな患者団体や考えの人が参加した運動を『よかたい、よかたい』と言ってまとめる姿が印象的だった」と振り返った。
毎日新聞社

評伝=原田正純さん死去 患者側の立場貫く 公害被害の実像示す
2012.06.12 朝刊 
 医師、原田正純氏は、熊本大学大学院時代に初めて水俣病の被害現場を踏んだ。何度も通ううち、目の前で苦しむ患者に、なすすべもない自分を意識する。以来、「治せない病気の前で医者はどうあるべきか」が人生のテーマになっていった。 【1面参照】
 汚染魚を食べたこともない幼児に水俣病患者と似た症状があることに疑問を持ち、当時の医学の常識を破って胎児性水俣病の存在を世に出した。
 患者の故川本輝夫さんから、未認定の患者がいると知らされ、水俣病終息を望む周囲の冷たい目にさらされながらも患者の掘り起こしに奔走。患者か否かの対立は40年たった今でも続いている。
 足しげく現場に足を運んで患者を診察し、裁判では証言台にも立った。熊大退職後は熊本学園大(熊本市)教授となって「水俣学」を構築した。
 活動は水俣病にとどまらず、三池CO(一酸化炭素)中毒、カネミ油症、さらには海外の公害被害にまで広がった。
 多くの現場を歩き、導き出した法則は「常に弱者側が被害者になる」だった。圧倒的強者の加害企業や国家と、徹底的に弱い立場の被害者が対立する構図。「医師は中立でなければ、という人がいる。中立って何? 強者と弱者の間では、被害者側に寄ってこそ本当の中立だよ」と訴え続けた。
 熊本大では最後まで助教授だった。患者側に寄る「立場」がどう影響したか定かではないが、本人は「自由に国内外を飛び回れてありがたかった」と話した。「医者はどうあるべきか」。目の前の現実(被害)と正直に向き合い続けた原田氏の姿勢こそが、その答えのように私には思える。見事な人生だった。ご冥福をお祈りいたします。(元水俣支局長・石黒雅史)
 ●胎児性水俣病を解明/根源的問題訴え 惜しむ声
 「水俣病」に人生をささげた医師、原田正純さんが11日亡くなった。原因企業チッソや行政の責任を問う一方、患者の早期救済を訴え続けてきた。交流があった人たちは固い信念と温かい人柄を振り返り、その存在の大きさをかみしめた。
 熊本学園大の丸山定巳教授は、1969年に発足した医師らの水俣病研究会で原田さんと知り合って以来の付き合い。「医者としてはざっくばらんで、率直な人だった」と振り返る。
 熊本大大学院生時代から胎児性水俣病を研究。当時「胎盤は毒物を通さない」が定説だったが、水俣湾周辺を訪ね歩き、被害の実態を明らかにした。丸山教授は「長く放置されていた胎児性水俣病の存在を明らかにした意義は大きい」という。
 複数の症状の組み合わせによる水俣病の認定基準も「医学的に誤り。基準に合わない患者は大勢いる。権威を振りかざす一部の専門家が基準をゆがめた」と指摘。水俣病をめぐる裁判では常に患者サイドに立った。
 水俣病被害者互助会事務局の谷洋一さん(63)は2週間前に原田さん宅を訪ね、本人と面会した。「自分はまだやり残したことがあるけれども、これからは若い人たちに頑張ってもらわないといけないと話していた。残念としか言いようがない」と肩を落とした。
 環境相が2005年に設けた提言機関「水俣病問題に係る懇談会」メンバーだった作家の柳田邦男さん(76)は「大学に来る患者だけを診る医師とは違い、現場感覚を持ち、水俣病の根源的な問題をぶれずに訴え続けた」とたたえた。
 数多くの講演をこなした原田さんだが、自慢話はほとんどなく、失敗談を披露して苦笑いする場面が多かった。「世界初」とされる胎児性水俣病患者の確認も、患者の同居家族の異変を知る機会がありながら、診察にまで至らなかったことを幾度も恥じた。「あのとき、どうして家族のことも診なかったのか、僕は今でも後悔している」
 認定患者団体「チッソ水俣病患者連盟」の高倉史朗事務局長(60)は「医師であるだけでなく、文学者、社会学者でもあった。先生がいなかったら水俣病は第1次訴訟で終わっていた」と、その死を惜しんだ。
西日本新聞社

原田正純さん死去 水俣病研究の第一人者 77歳 死亡
2012.06.12 朝刊 

 水俣病事件に長く向き合い、水俣病研究の第一人者だった医師、原田正純(はらだ・まさずみ)さん=神経精神医学=が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市東区長嶺南7の1の30の自宅で死去した。77歳。通夜、葬儀の日程は未定。
 熊本大医学部卒。1972年から同大助教授。99年から2010年まで熊本学園大教授を務めた。
 熊本大大学院生だった61年から水俣に通い続け、多くの水俣病患者を診察。ライフワークともなった胎児性水俣病の研究では、日本精神神経学会賞を受賞した。水俣病訴訟の法廷では患者側に立った証言を続け、長年の臨床経験から構築した病像論を展開した。
 活動は海外にも及び、カナダやアマゾン川流域などの水銀汚染やアジアのヒ素中毒、ベトナムの枯れ葉剤の影響など世界各地の環境汚染の現場で調査を継続。三池炭鉱の炭じん爆発によるCO(一酸化炭素)中毒やカネミ油症事件など研究対象も多岐にわたった。熊本学園大では、水俣病事件を学際的にとらえる「水俣学」を提唱した。
 「水俣病」(岩波新書)や子ども向けの「水俣の赤い海」(フレーベル館)など著書多数。「水俣が映す世界」は大仏次郎賞、「水俣、もう一つのカルテ」は熊日文学賞。環境保護への貢献から、94年にUNEP(国連環境計画)のグローバル500賞、2001年に熊日賞。10年には「KYOTO地球環境の殿堂」入りが決まった。(石貫謹也)
 ●さみしかですね
 ○作家・石牟礼道子さんの話 1カ月ほど前にお会いしたばかりでしたが…。(体調が悪いと聞いており)覚悟しておりました。さみしかですね。何と申し上げてよいか分かりません。
 ●多くを学んだ
 ○丸山定巳・熊本学園大教授の話 胎盤は毒物を通さないという医学の定説に疑問を投げかけ、胎児性水俣病の存在を証明したことは大きな功績だった。1969年に水俣病1次訴訟が提起されたころからの付き合いだったが、医学分野でとんちんかんな質問をしても、ざっくばらんに応じてくださった。私自身、原田先生から多くのことを学んだ。非常に惜しい人を亡くした。
 ●業績は大きい
 ○富樫貞夫・熊本大名誉教授の話 医学の枠にとらわれず、患者に寄り添いながら非常に幅広い活動を続けられた。水俣病を極めて分かりやすい表現で、国内だけでなく世界に伝えてくれた業績は大きい。原田さんがいなければ、水俣病はこれほど幅広く認知されなかっただろう。
 ●残念でならない
 ○水俣病被害者互助会事務局の谷洋一さんの話 被害者の立場に立ち、水俣病問題を切り開いてきた医師だった。本当に残念でならない。原田先生なくして、胎児性患者の存在などが明らかにされることはなかった。やり残したことがある、また水俣に行きたい、とおっしゃっていた。
熊本日日新聞社
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