2005/6/20

自主制作ドキュメンタリーに関して  

以下は自作のドキュメンタリー制作に関して考えていることをつれづれと書いたものですので、興味がない方は適当に読み飛ばしてください。

決して見る側にどう見せるかを考えない、ひとりよがりのものをめざそうという話ではないんだけど、自分がつくるものを考えるときに、「商品」としてきちっとしたものをつくるということではないのだと思う。
つまり、端的にいって、テレビやPRのドキュメンタリーのようなものを自分は作るわけではない。それでは自主制作でやる意味がないからだ。テレビみたいなものをもしやろうとしても、下手になぞったようなものにしかならないだろうし、それではかえって悲惨である。それなら、僕が個人でやるより、きちっとしたテレビクルーが作ればそうしたものならはるかにいいものが出来るに決まっているからである。だから、むしろ、これはテレビでは放送できないだろうというようなものをつくってこそ、僕が個人でつくる意味がある。いや、それでなければ、僕がつくる意味がない。そういう、何か、テレビでやれないようなことをやることを売りにしなければならない。では、それがなんなのかということが問題であるわけだけど。
もちろん、クオリティはどうでもいいと思っているわけではないので、カメラマンを自分と別につけ、またカメラマイクと別にマイクを用意することは考えていきたいけれども。
自分でマイクをもつというアメリカのドキュメンタリー映画監督、ワイズマン監督の姿勢(ワイズマンは「音」を基盤につくる人らしい)などは(ワイズマンのようにフィルム作品ではなくデジタルビデオで撮るわけだけれども)参考にするべきかと思う。
しかし、社会的な問題を、個人で、テレビなどとは違うものとしてつくっていくとはどういうことなのか? ここを考えないといけない。
今、漠然と考えているのは、ナレーションをプロのナレーターにしゃべってもらうものと、自分(僕)がしゃべるものと並列して分けることだ。これは、社会的な問題を僕個人の「主観」でとらえたもの、「客観」(もちろん、撮影されるものは撮影する制作者の主観によるものだとしても、僕個人がどういう人間かにとどまらない社会的な観点から考えられる「問題」のつかまえ方ということだけど)でとらえたものとで区別される。もしかしたら、「主観」と「客観」がせめぎあうものになるかもしれない。(というか、それがドキュメンタリーというものなのかもしれないけれども。)
ジャンルとしてドラマかドキュメンタリーかということが重要なのではない。つくりてがドラマの場合のように被写体に意図を伝え支持を与えて撮るのでなく、被写体を見つめることから逆に考えていくとか(もちろん、ドラマでもある程度、役者に自由にやってもらってという作り方はあるのですが)、そういう具体的なつくりかたの違いから出てくる、表現されるものの、具体的な違い(たとえば人物のいかなる表情をとらえるかといった)が問題なのだ。結果的に出来る作品がドラマかドキュメンタリーかといったジャンルわけはどうでもいいことである。たとえばペドロ・コスタの映画がそのように分類わけは不可能なものであるように。
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