2020/7/17

森崎東監督、逝く  映画

嗚呼、森崎東監督、逝く。
その日の気分で明日には変わるかもしれないが、ベスト3を挙げてみると、『喜劇 女生きてます』『喜劇 特出しヒモ天国』『ロケーション』で、どうだろう。
『喜劇 女生きてます』の、久万里由香が演じるポチこそ、わが永遠のヒロイン。
そして、『喜劇 特出しヒモ天国』。あの語り口、いったい、なんなのだろうね。
冒頭と終盤の方に殿山泰司の説教僧が説教していておばあさんたちが聞いているシーンがあるのだけれども、なんでこのシーンがこのストリップに生きるストリッパーたちとそのヒモたちを描く群像ドラマの冒頭にあるのかはよくわからない。説教僧は生と死の無常みたいなことを語っているのだが、おそらくこの説教のリズムがこのドラマに結びついているというわけなのだろうか。ああ、謎の語り口。
森崎は森崎にして、他に類がない映画を撮る映画監督だった。
それにしても、『喜劇 特出しヒモ天国』に出てくる女も男もなんと哀切なんだろう。川谷拓三が演じる刑事の男はストリップの舞台に上がっているときに警察がガザ入れしてきて刑事を首になり、ストリッパーのヒモになるのだ。
他に類がない、喜活劇(コメディ・アクション)を撮る監督だった。
『ロケーション』、これが僕が初めて見た森崎東監督作品だけど、ピンク映画の撮影現場を描いた、まさに喜活劇。美保純のあの走り。
他に類がない映画を撮る監督だったのだけど、この『ロケーション』を思い出した映画があるにはあって、香港のイー・トンシン監督の、ポルノ映画の世界を題材にした『夢翔る人 色情男女』がそれだ。
『夢翔る人 色情男女』が『ロケーション』と同じように映画内映画と言える撮影現場を描いたものでありながらシネフィル的な「映画愛」作品の域に留まらない作品になっているのは、それがポルノという裏稼業に生きる人達を描いた庶民派喜劇であるからだ。そして、この映画の1エピソードで、ある売れない監督は、走って、走って、ついには本当に現実の映画の撮影現場からいなくなってしまうのだ!森崎東監督の『ロケーション』を思い起こさないではいられない。
もう一本、堀禎一監督の『憐』。これは、堀監督が小津の映画を意識してつくっているのに違いないのではあるのだけど、しかし画面の構図においては小津を連想させるものであったとしても、そこにアクションが導入される。
すなわち、自転車で2人の人物が並んで走るとか、集団で高校生たちがバスケットボールをするとか、極めつけは夜の海辺で高校生たちが焚火をするシーン。この夜の海辺の焚火のシーンはまさに森崎東の『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』かのようであり、そしてこの映画で高校生たちは円陣を組んでバスケットボールをしながら話をするのだった。
最後に、森崎東の最後の作品になった『ペコロスの母に会いに行く』について、やはり宮崎駿の最後の作品になるかもしれない『風立ちぬ』と並べて、この2作品が構造として似通っているところがあることを書いておきたい。
すなわち、『風立ちぬ』は夢の中で天国の世界を行き来することができる男の話だが、『ペコロスの母に会いに行く』は認知症によって霊界を行き来できるようになる話だ。
しかし、宮崎駿と森崎東の新作で似通った境地が見れたのは僕には意外だった。
森崎東作品は、たとえば『塀の中の懲りない面々』で囚人たちが夢見るように、現実の世界と夢の世界を行き来するということはよく描いてきたが、しかしそれは生者と死者の世界を行き来するというものではなかった。基本的には『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』のタイトル通り、森崎東の関心は「生者」の側にあったと思う。「生者」と「死者」が平等に扱われ、たとえば「生者」と「死者」がひとりの女を争うというような、鈴木清順の映画のような事態は森崎の映画ではこれまでなかったと思う。
でも『黒木太郎の愛と冒険』や『ロケーション』で森崎東は「死」を主題にしているのではないかと言われるかもしれないが、それはそうなのだが、ここで森崎は映画内映画の構造で、虚構世界での「死」という構造をとっている。こういう構造で「死」を扱うのが「生」にこだわる森崎らしさなのではないか。
宮崎駿が『風立ちぬ』のような話に行くのは分かる気がするけど、「死者」が絡んでも結局は「生者」の側を撮っていた森崎東が、なぜ最後に「生者」と「死者」が並んで存在するような映画を撮ったのか。年齢によるもの、年齢によって森崎もそういう境地に至ったのか。分からないけど興味深い。
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