2005/8/24

東京裁判が持つ可能性について  時事問題

NHKでナチスのホロコーストに関する番組を放映していて、アウシュビッツ収容所に勤務していたおじいさんが、戦後、非難され肩身が狭い思いをして生きてきたことを語り、自分は軍務を果たしただけであるといったことを語っていたのだけど、こうした発言を自己弁護だとさらにこのおじいさんを非難する人もいるのかもしれないけれども、このおじいさんが生きてきた実感として本当のことであるのではないかと僕は思う。
結局のところ、戦争というものは、何十年も延々と続いているイスラエルとパレスチナの紛争を見ても分かるように、そうそう、単純に善と悪、被害者と加害者とに区分けできるものではなく、2国間で戦争をしているのならば、被害者が同時に加害者である、ということが当たり前に存在し得るものであるのに違いないと思うし、ヒットラーのような「絶対悪」であるかのようにみなされる人物でさえ、やはり必ずしも「悪」の要素だけの人物ではなかったのではないかと思う。それは北朝鮮の金正日にしてもそうだと思うし、要するに世の中には相対的な善人とか悪人とかはあり得るが、絶対的な善人とか悪人とかはいないのだと思う。
こう書くとヒットラーや金正日を弁護するのか?と誤解されてしまうかもしれないが、僕が言いたいのはそういうことではなく、戦争においては双方の国がそれぞれ加害者であり同時に被害者でもあるわけで厳密には区分けできないのではないかということを言いたいのである。

だから、いわゆる「東京裁判」史観で、日本が一方的に侵略国であり「悪」だったと裁かれるのもたしかに不当かとは思うし、かといって日本は実は被害者だったのだ、中国や韓国こそが「悪」なのだと、逆に日本と中国、韓国とを「善」と「悪」で区分けするのもやはり違うのではないかと思う。
とかく右寄りのものにしろ、左寄りのものにしろ、多くの言説は一方を「善」、一方を「悪」と区分けすることばかりに傾き過ぎているきらいがあるように思うのだ。
たとえば、日本が朝鮮を併合して、いろいろ開発援助したという面があったことは事実だろうし、日本が悪いことばかりをしていたわけではないというのも事実だとは思うのだけど、かといってたとえば名前を朝鮮名から日本名にしなさいと言われて変更させられた人達が心の底で自分達は日本人よりも下だと見下されているように感じた、差別されているように感じたということも事実なのであろうと思うし、つまり、「善」の要素も「悪」の要素も渾然一体となっているものだったのではないだろうか?と思う。

敗戦国ばかりが裁かれた「東京裁判」はたしかに不当なものではあるのかもしれないとは思う。しかし、事後法であったとしても、「人道に対する罪」「平和に対する罪」という概念で戦争で行われた具体的な「行為」を考え裁こうとした、ということ自体は、評価できる面があるのではないだろうか?というのが僕がずっと考えてきたことである。
おそらくナチスが行ったホロコーストがあまりにも前例がないものだったので、こうした行為そのものを何らかの形で裁かなければいけないと「人道に対する罪」という概念が持ち出されてきたのだろう。
とはいえ日本はホロコーストを行ったわけではないので、その意味ではドイツと同一に裁かれたのは不均衡な面はあったのかもしれない。南京大虐殺の真偽について僕は断言し得るほど、自分の体験や知識を持っていないので真偽については分からないと言うしかないのだけれども、東京裁判においてひどく水増しされて日本が行ったことが言われたという側面はあったようだということはどうもある程度、定説になっているように感じている。これももしかしたらドイツが行ったこととある種の均衡をとるために日本が行ったことが事実よりも誇張されてしまったという面はあるのかもしれない。
そうした東京裁判の内実、日本が受けた扱いについてはたしかに不当な面があったのかもしれない。
しかし、日本はドイツの同盟国であったわけだから、ドイツを裁くからには日本は裁かないというわけにはいかなかったのだろうし、東京裁判を行わないでは現実的に日本が国際社会に復帰することもできなかったという側面はあったのではないだろうか。また、もうひとつの同盟国のイタリアはイタリア人自身でムッソリーニを裁いたのだけれども、日本人自身で戦犯を裁かなかった以上は国際的に裁かれても仕方がなかった面はあるのではないかと思う。
それに、僕がやはり東京裁判の意義を認めたいと思うのは、何よりも「人道に対する罪」「平和に対する罪」といった概念で戦争で行われた具体的な行為を裁こうとしたという点なのだ。もちろん、一概にドイツや日本は侵略国で悪、連合国は善という風に区分けしたことには、これまでの論旨の通り、根本的に戦争というものをそのように区分けできるものなのだろうか?という風に僕は思うし疑問を持つのだけれども、戦争にもやはりルールがあると思うし、第2次世界大戦は世界規模の未曾有の戦争で、兵器という面でもかつて考えられなかったぐらいのものが使われ、ホロコーストや原爆のようなものまで出てきてしまったわけで、やはり世界中の人々が自分達がしてしまったことはなんだったのだろうか?と反省し、そこで行われた行為というものを具体的に検証して裁く必要性はあったのではないかと思うのだ。
しかし、僕が抱くこのような理想とは東京裁判の実態は違い、結局は戦勝国が一方的に敗戦国を裁いたものでしかなかったのではないかと言われるかもしれないし、アメリカが原爆を落とした行為が裁かれることは遂にはなかったのであるけれども。
だから、僕が言うことはどうも理想論に傾き過ぎているのかもしれないけれども、でもとにかく今、世界中で行われている数々のことも、イラク戦争にしても、北朝鮮による他国民の拉致や自国民への人権侵害にしても、中国のチベットや台湾に対する横暴にしても、「人道に対する罪」「平和に対する罪」といった概念をもってしてそれらの犯罪性を考えるべき事例なのではないだろうか? そうすると、東京裁判の内実については検証し直すべきものであったとしても、「人道に対する罪」「平和に対する罪」という概念を提起してそうした行為の犯罪性を裁く前例をつくったものとして、東京裁判は人類史的規模では基本的に評価していくべきものなのではないだろうか? そして、東京裁判で提起された概念の延長線上で、中国や北朝鮮が行っている犯罪性を考えていくのが妥当なのではないか?と僕は思うのだ。
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