2005/12/22
朝日新聞に竹中労『ビートルズ・レポート』の記事掲載 音楽・演劇
*朝日新聞に竹中労『ビートルズ・レポート』の記事が出ました。しかも1面に。
僕はリアルタイムでビートルズ来日を知らないけど、『ビートルズ・レポート』は学生時代に読んで感銘を受けた愛読書のひとつなので嬉しいことですが、でもなんだか、こういうのも「歴史」として語られるようになってしまったということではありますね。
(朝日新聞、12月20日夕刊より)
ニッポン 人・脈・記 ビートルズの時代(7) 匿名6人が「祭り」をルポ 無頼の人革命を見る
竹中労は物騒なルポライターだった。
有名人や権力者の秘事を容赦なく暴く。東京都庁乱入や傷害事件で何度も逮捕される。背中一面に彫り物をし、自ら醜聞をふりまく、山谷の労働者を支援し、「世界革命人」を名乗ったアナキスト。異能、無頼の人だった。
ビートルズの来日を控えた66年5月。女性誌の専属を離れ、フリーで売り出し中だった竹中は、連日、新聞記者や編集者を喫茶店に呼び出して口説いた。
「来日は大騒動になる」「どす黒い舞台裏があるんだ」。右翼や政界の大物の名をちりばめた長広舌。「反権力、反体制で一切を記録し、本にする。協力しないか」
竹中の誘いに6人が応じた。竹中以外は会社に内証で、匿名参加。ビートルズが泊まる東京ヒルトンホテルの857号室を取材本部にして、来日と同時進行の執筆が始まった。
報知新聞記者だった、音楽評論家伊藤強(70)。ホテル9階にあった報知の取材本部で新聞用の原稿を書き、仮眠の時間に抜け出して、857号室でルポを書いた」
「寝る間がなかったけれど楽しかった。これは歴史的な記録だ、会社では出来ない仕事だと思っていた」
ビートルズを招いた協同企画の代表秘書、清水和江(65)は内部情報の提供者として加わった。
竹中に誘われた時、「いつもの竹中さん流の大仰な話だ」と思ったが、うなづくところもあった。
来日契約の2週間も前に、警視庁から「警備計画を相談したい」と電話があった。相談に出かけた同僚は、警察がファンクラブのトラブルまで調べ上げているのに驚いていた。清水は、竹中に「70年安保をにらんだ警備演習だ」と言われて、ありうる話かも知れないと思った。
それに、竹中の誘いを断って、会社が「悪の呼び屋」と描かれても困る。清水は、招請のいきさつや、ビートルズの動きをルポする役目を引き受けた。
7月中旬、本が出来た。書名は「ビートルズ・レポート」。B5判129ページ、月刊誌「話の特集」の臨時増刊として発売された。
「反社会的な音楽に外貨を使うな」と論陣をはった評論家。期間中に警察が補導した子どもの数。大量に余った入場券の謎。女子高生対談。細部の積み重ねに、スキャンダル誌風の悪態がまじる。
全体を貫くのは「純真なビートルズファンの少年少女」と「ビートルズを理解できず、欲望だけのおとなたち」の対立構図だ。
36歳の竹中はどちら側だったのだろう。
「彼は、あの本で名を上げようとしていたと思う」と、「話の特集」編集長だった矢崎泰久(72)は言う。古い記者仲間だった竹中に、「来日ルポは売れるぞ、もうかるぞ」と出版を持ちかけられた。
「来日は巨大な『祭り』だった。竹中が、権力者は祭りを利用したがる、浮かれてはいけないと言いたかったことも確かだ」
来日直前に書き上げた「呼び屋」(弘文堂)で、竹中は「くたばれ、ビートルズ! 若者に、若者自身の歌を……」と書いた。
ところが82年にはこう書いた。「イエスタディが私は好きだ、レット・イット・ビーはわが生涯の名曲の一つだ」「ビートルズは批評の対象ではなく、一個の原理であった」「彼らとの出会いで私は転生した、(中略)革命の新たな志と、実践を見出す(みいだす)ことができたのである」
結局「ビートルズ・レポート」は売れなかった。少年少女には、ややこしすぎた。
贈呈した作家の何人かがほめてくれた。三島由紀夫は、「戦後3大ルポルタージュの一つだ。家宝にする」と電話をよこし、追加を5冊注文した。評判がじわじわ広がり、復刻が重ねられた。
96年の復刻で、伊藤や清水たちは初めて原稿料を受け取った。5年前に60歳で逝った竹中が、来日30年記念でくれた、ごほうびのようだった。 (湯瀬里佐)
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僕はリアルタイムでビートルズ来日を知らないけど、『ビートルズ・レポート』は学生時代に読んで感銘を受けた愛読書のひとつなので嬉しいことですが、でもなんだか、こういうのも「歴史」として語られるようになってしまったということではありますね。
(朝日新聞、12月20日夕刊より)
ニッポン 人・脈・記 ビートルズの時代(7) 匿名6人が「祭り」をルポ 無頼の人革命を見る
竹中労は物騒なルポライターだった。
有名人や権力者の秘事を容赦なく暴く。東京都庁乱入や傷害事件で何度も逮捕される。背中一面に彫り物をし、自ら醜聞をふりまく、山谷の労働者を支援し、「世界革命人」を名乗ったアナキスト。異能、無頼の人だった。
ビートルズの来日を控えた66年5月。女性誌の専属を離れ、フリーで売り出し中だった竹中は、連日、新聞記者や編集者を喫茶店に呼び出して口説いた。
「来日は大騒動になる」「どす黒い舞台裏があるんだ」。右翼や政界の大物の名をちりばめた長広舌。「反権力、反体制で一切を記録し、本にする。協力しないか」
竹中の誘いに6人が応じた。竹中以外は会社に内証で、匿名参加。ビートルズが泊まる東京ヒルトンホテルの857号室を取材本部にして、来日と同時進行の執筆が始まった。
報知新聞記者だった、音楽評論家伊藤強(70)。ホテル9階にあった報知の取材本部で新聞用の原稿を書き、仮眠の時間に抜け出して、857号室でルポを書いた」
「寝る間がなかったけれど楽しかった。これは歴史的な記録だ、会社では出来ない仕事だと思っていた」
ビートルズを招いた協同企画の代表秘書、清水和江(65)は内部情報の提供者として加わった。
竹中に誘われた時、「いつもの竹中さん流の大仰な話だ」と思ったが、うなづくところもあった。
来日契約の2週間も前に、警視庁から「警備計画を相談したい」と電話があった。相談に出かけた同僚は、警察がファンクラブのトラブルまで調べ上げているのに驚いていた。清水は、竹中に「70年安保をにらんだ警備演習だ」と言われて、ありうる話かも知れないと思った。
それに、竹中の誘いを断って、会社が「悪の呼び屋」と描かれても困る。清水は、招請のいきさつや、ビートルズの動きをルポする役目を引き受けた。
7月中旬、本が出来た。書名は「ビートルズ・レポート」。B5判129ページ、月刊誌「話の特集」の臨時増刊として発売された。
「反社会的な音楽に外貨を使うな」と論陣をはった評論家。期間中に警察が補導した子どもの数。大量に余った入場券の謎。女子高生対談。細部の積み重ねに、スキャンダル誌風の悪態がまじる。
全体を貫くのは「純真なビートルズファンの少年少女」と「ビートルズを理解できず、欲望だけのおとなたち」の対立構図だ。
36歳の竹中はどちら側だったのだろう。
「彼は、あの本で名を上げようとしていたと思う」と、「話の特集」編集長だった矢崎泰久(72)は言う。古い記者仲間だった竹中に、「来日ルポは売れるぞ、もうかるぞ」と出版を持ちかけられた。
「来日は巨大な『祭り』だった。竹中が、権力者は祭りを利用したがる、浮かれてはいけないと言いたかったことも確かだ」
来日直前に書き上げた「呼び屋」(弘文堂)で、竹中は「くたばれ、ビートルズ! 若者に、若者自身の歌を……」と書いた。
ところが82年にはこう書いた。「イエスタディが私は好きだ、レット・イット・ビーはわが生涯の名曲の一つだ」「ビートルズは批評の対象ではなく、一個の原理であった」「彼らとの出会いで私は転生した、(中略)革命の新たな志と、実践を見出す(みいだす)ことができたのである」
結局「ビートルズ・レポート」は売れなかった。少年少女には、ややこしすぎた。
贈呈した作家の何人かがほめてくれた。三島由紀夫は、「戦後3大ルポルタージュの一つだ。家宝にする」と電話をよこし、追加を5冊注文した。評判がじわじわ広がり、復刻が重ねられた。
96年の復刻で、伊藤や清水たちは初めて原稿料を受け取った。5年前に60歳で逝った竹中が、来日30年記念でくれた、ごほうびのようだった。 (湯瀬里佐)

2006/1/22 1:48
投稿者:kusukusu
2006/1/21 12:44
投稿者:kusukusu
>矢崎は下品なバカヤロー
でも結局、ビートルズレポートは売れなかったわけ
だからあまり商売人としてはうまいとは言えないん
でしょうか。
でも結局、ビートルズレポートは売れなかったわけ
だからあまり商売人としてはうまいとは言えないん
でしょうか。
2006/1/21 12:01
投稿者:府川充男
矢崎は下品なバカヤローですな。
すみません。あまり噛み合ったレスになっていな
かったかも。
コメント、有難うございました。