2006/2/5

『ホテル・ルワンダ』と『イノセント・ボイス』再考  映画

僕は『ホテル・ルワンダ』について否定的な感想を書いているのだけれども、ただ栗本東樹さんのブログではこの映画の監督について以下のように書かれていました。

>『父の祈りを』 や 『ボクサー』 といったアイルランドのジム・シェリダン監督の映画で脚本を執筆し、自身も、カソリックとプロテスタントの醜い諍いを間近に体験してきた監督

僕は実は『父の祈りを』も『ボクサー』も見ていなくて、この映画のつくりての監督がどういう人かはまったく意識しないで見ていました。
栗本さんが書かれているようにこの監督が自らの体験してきた「カソリックとプロテスタントの醜い諍い」をなぞらえてこの映画を撮ったのなら、つくりての作品へのモチーフは分かります。そのあたりを意識して見るとちょっと違って見えてくるのかもしれません。

対して『イノセント・ボイス』のほうはつくりて自身の体験をもとにした話であることをあらかじめ知っていて、この点を意識し過ぎるぐらいに意識して見ていました。
もしかしたらつくりての思いみたいなものに圧倒されて、映画作品としての出来以上に過大評価しているところがあるのかもしれないと思うぐらいです。

僕はつくりて、書きて自身の体験をもとにした「私映画」「私小説」の類いのものがわりと好きなほうだと思うのですが、一方でそうしたものはつくりての「気持ち」「思い」に感情移入してつい過大に評価してしまっているのではないか、芸術作品としての出来というのは別に考えるべき問題なのかもしれないという気持ちもないではありません。
実際、「私映画」「私小説」のようなタイプの作家は、それで1本、がーんという傑作を撮る(書く)のだけれども、どうも先細りしてあとは同じような作品を模倣して量産することで終わってしまうことも多いようには思います。
むしろ、自分のことを語ることは回避していてひたすら面白い物語を語ろうとしている作家が純粋に物語を語る技術でベストセラー作家になったり職人作家として売れっ子になったりするということはあるような気はします。
そういった意味では『イノセント・ボイス』の脚本家も、果たして今後、脚本家、監督として大成する人なのかどうかは分からないとは思うのですが、それでも『イノセント・ボイス』の場合は語られている個人の体験があまりにもすごいものですので、「私映画」であったとしても並の「私映画」とは異なるものであり際だっている作品だと言えるのではないでしょうか。
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