2006/7/14

『サイレントヒル』の衝撃と『霧の旗』  映画

ゲームをもとにした映画なんて聞いただけで自分の好みのものとは違うのではないかとつい思ってしまうし、しかしそうしたものもたまには見ておこうという感じで見た『サイレントヒル』は、そうした予想に反して嵌るというのか、衝撃を受けるような作品だった。
ある意味、うーむ、ゲームの世界ってこういうものだったのか!?とカルチャーショックを受けるものがある。
これはゲーマーの人が撮ったというより、ゲームの世界そのものに深く入り込んだ人が撮った作品だということなのだろうか?

特に僕が驚いたのは、この作品が平気で「辻褄が合っていない」こと、合理的だとは思えないことを行なう人間を描いたものであったことである。
ゲームの世界なんて、それこそ、辻褄とか計算とか、そういうことを高度にやっているものなのではないかと思っていた・・。

辻褄、合理性(整合性)をきちんとさせることが良いドラマのシナリオだとされる。それは本当にそうなのだろうか?
そう疑問をもつのは、現実に人間というのは「辻褄が合わない」ようなことをしているではないか?と思うからだ。たとえば最近の三面記事の事件を思い浮かべてもそうであり、整合性など、とれていないのだ。むしろ、辻褄が合わないことを行なうところに人間の不思議さ、恐さがあるとも思える。
とするならば、真に人間を描き出し、それを伝えようとするならば、むしろ、辻褄がとれていない、だけれどもこういうことはありであると観客に納得させるという形がベストなのではないだろうか?
もちろん、作品というのはつくりてと観客との関係性において成立するものなので、不特性多数を納得させる(不特性多数に伝わる)ものにするためには辻褄、整合性をきちんとさせないといけない、ひとりよがりではいけない、現実の事件が辻褄が合わないものだからといってそれを描いてもドラマにはならないんだ・・という言説も一定の正しさを持っていると思う。
だから、ドラマとは辻褄、整合性をきちんとさせるべきものではないかという考えと辻褄がとれていないものこそが現代的な人間を描き出したものなのではないかという考えとの両極の間で「うーむ、それではどうすればいいのか?」と悩んでしまうのではないだろうか?

僕が『サイレントヒル』に衝撃を受けたのは、この作品においては「辻褄が合っていない、しかしそれが人間だ」ということと、「不特性多数に向けたハリウッド、エンタテイメント映画」ということとが両立しているように思えたからである。
これは「ゲームの映画化」という形態のものだからなのだろうか!? つまり、ドラマとは異なるゲームという形態だからこそとらえることが出来た現代的なリアリティというものがあるのだろうか?
しかし、まあ、いまさら、ゲームをはじめてその世界に精通するだけの暇と金もないのでゲームをするつもりにはならないわけだけれども、ゲームをしなくても映画という形でそのスピリットの一端を伝える『サイレントヒル』のような映画に触れ得たことは自分にとっては興味深い体験であったと言える。

たとえば僕が今週、見た映画で『霧の旗』を傑作だと言い、片方で『サイレントヒル』を傑作だと言うことに、山口百恵の映画とゲームの映画作品とを同時にほめるkusukusuさんはおかしな人だなあと思われるかもしれないが、実は全然、おかしくないのだ。なぜなら僕はこの2作品をまったく同じような文脈で傑作ではないかと考えているからである。
『霧の旗』はプログラムピクチュア的な効率の良い語り口の作品であると言えると思うが、そうした西河克己監督の職人的技量によって優れている映画作品なのだろうか? 実は西河克己という監督の優れている点というのは、そうした物語を語る職人的技量のたしかさではなく、辻褄が合っていない物語でも情動的に(具体的に情感のあるシーンを撮って)説得力のある作品にしてしまうというところにあるのではないだろうか?
つまり、『霧の旗』はミステリーとしてはかなり強引で辻褄が合っていないものであり(その意味では松本清張原作であることが信じられない)、しかしだからこそこの異様な物語を確信犯的に生きている山口百恵が演じるヒロインが異様な迫力を持っているのだと思う。『霧の旗』は職人的に手堅くつくられた映画などでは実はなくて、変な映画なのだ。
だから僕は『霧の旗』を『サイレントヒル』と同じ文脈で、「辻褄が合っていないことをこういうことはあり得ると観客に納得させるように成立させている、こういう作品こそが現代的な人間を描き出した傑作だと考えるべきなのではないか?」という考えに基づいて評価しているのである。
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