2006/8/10

宮崎駿の野心の一考察  映画

2003年6月13日に、「映画生活」の『千と千尋の神隠し』質問議論掲示板にkusukusuではなくKKKの名で投稿した文章を唐突にここに掲載します。
『ゲド戦記』についての記事を書くつもりなのですが、その前段として載せるものです。

宮崎駿の野心の一考察
http://www.eigaseikatu.com/com/1543/44885/

まあ、僕はそれほど、宮崎駿という作家に愛着があるわけでもないのですが、アマテラスさんに別にスレを立てたらと言われたので、僕も面倒なのですが、ざっくばらんに記しますと。
まず、「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」が参照としていると思われるのは、網野善彦氏の著作だと思いますので、網野善彦氏「日本中世の民衆像」(岩波新書)を見て行きます。

「南北朝の動乱ののち、室町期以降、文字がより深く社会に浸透する、都市が成立してくる、呪術性が次第に社会から消えていく、感性に変わって理性が優位を次第に占めてくる。その反面、私有が次第に本格的に社会の内部に浸透しはじめる。と同時に、差別の固定化が進む等々」(同書、P178)といった変化を、社会構成史的な側面からだけでなく民族史的な次元から分析しようというのが網野氏の学術研究ですが、こうした変化のポイントになったのが貨幣の流通であり、「農村・漁村・山村と都市の分化が、それを前提としていることはまちがいありませんし、また貨幣の流通にともなって計算能力が非常に普及して発達してくる。」「こうした力は、読み書きとともに庶民のなかにも普及していったに違いありません。それがまた人間関係を変えていくわけですから、この転換は単純に一つの原因にのみ帰することはできない問題」(p179)というのが網野氏の考えです。だからこそ、民族史的な次元の問題を明らかにしないと、「日本の民族が、天皇などによる統合などではなく、民衆自身の多様な営みのなかから形成されてくる過程を、本当に明らかにすることもできない」(p179〜180)というわけです。
なぜこうした分析をするのかと言うと、「最近のいろいろな世界の諸民族の動きをみておりますと、これまでふつう「世界史の法則」といわれてきた歴史のとらえ方だけでは解決しがたい深刻な問題がそこに伏住していることは、はっきりしてきて」(p180)いて、「隣国では、一つの民族が二つに分かれ、光州の事件に集約的にあらわれているようにおそるべき虐殺が行われ、たくさんの庶民の血が流されている」(p180〜181)からです。
「マルクスの提出した法則、定式、もちろん、それはいまでも有効性を失っているわけではない」(p181)と思いながらも、マルクスが分析しなかった角度から問題をとらえようとしているわけです。

で「千と千尋の神隠し」なんですが、「油屋」は女郎屋をイメージしたものだと思うのだけど、貨幣にとりつかれた世界というのがやはりこの世界の基盤であると思います。
両親や大人は貨幣(金銭)にとりつかれている。金銭の欲望にとらわれてしまった象徴がカオナシというキャラクターと思えます。しかし、ヒロインは10歳の女の子なのでまだ世の中、お金がすべてみたいな、金銭の欲望にとらわれているわけではない。そうしたヒロインの物語であるわけです。
という風に分析すると、いかにも教訓的な、「世の中、お金がすべてじゃないんだよ」ということを言おうとしているように思えてくるのですが、宮崎という作家がユニークなのは、端的に勧善懲悪、善人対悪人みたいな話に集約されるような物語をやろうとしているわけではないというところであると思います。
変なキャラクターがぞろぞろ出てくる宮崎アニメは、それが善のキャラクターか、悪のキャラクターかということはこえて「変なの。おもしろーい!」と楽しめるわけですから、善と悪の倫理をこえた変な混沌とした世界をやろうとしているわけです。特に、パンダコパンダ、トトロ、カオナシと発展させてきたキャラクターの系譜に宮崎的な善悪をこえた変さが出ているかもしれません。(カオナシは欲望にとりつかれたやつでもなんとも可愛いキャラクターです。)
「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」と、網野史観に触発された、日本の庶民像の話を描いて来ているのは注目されるところでしょう。
しかし、一方で宮崎には、子供に提出する物語は人の心にひそむ悪意を伝えるものであるべきではないという考えがあるようです。
インタビューでも次のようなことを言っています。

「……だから僕は、これはあちこちで喋ってることですけど、『人というのはこういうものだ』っていうふうな描き方じゃなくて、『こうあったらいいなあ』っていう方向で映画を作ってます。『こういうもんだ』っていうのは自分を見りぁあわかるんでね」
「このだらしなさとか、そんなの今さら他人に言われたくもないし、他人に伝えたいとも思わないです。そういうことで共感を得たいとも思わない。そういうだらしない部分っていうのは、これは要するに恥の部分であって、それはもうこっそり隠してお墓に入りゃいいんでね。その底知れない悪意とか、どうしようもなさとかっていうのがあるのは十分知ってますが、少なくとも子供に向けて作品を作りたいっていうふうに思ったときから、そういう部分で映画を作りたくないと思ってます」(『風の帰る場所〜ナウシカから千尋までの軌跡』ロッキング・オン刊、渋谷陽一によるインタビュー)

宮崎が描こうとしている世界は善と悪がはっきり区分されたような図式的な物語でなく渾沌とした世界であるはずなのに、子供に提出するものだから悪意を描くことは排除しなければならないという。ここになんともユニークな形のこの作家の抱えるジレンマがあるように思います。ある種の作家的な限界を感じる部分であるとも思えるのですが、同時に、描こうとしている世界の作家的探求と、それをいかに提出するかという点での問題意識にズレ(ある種の矛盾)があるので(描きたいことをあえてそのままは提出しない)、そこの部分で独特の悪戦苦闘をしていて(このバランスがどう傾くかで「もののけ姫」のような野心的な作品になったり「千と千尋の神隠し」のような作品になったりする)ユニークな変さを出しているとも言えるわけです。その意味では野心的な作家ではあるのかもしれません。
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