よろずよばし

2016/9/4  10:28 | 投稿者: minmax

新潟市のシンボルについてアンケートをとると「萬代橋」がトップになる。

萬代橋のことは根っからの新潟市民なら詳しく知っていると思うが、新潟に移り住んだ人は実際にはどれくらいのことを知っているのだろうか。

何気なく通っている人も多いことだろう。県外から来客があった際に新潟の何を説明するか迷う時が多い。そんなとき、会食などの際の話のタネに萬代橋のこと、万代シティーあたりは元々川だったことなどを語ってみてはどうかと思う。

平成八年、万代クロッシングの工事に際して出土した初代萬代橋の基礎杭は同地下道内に保存されているが、行ってみても人影はまばらだ。大した感動はわかない人が多いと思うが、身近なところで昔の人の苦労や歴史を感じるにはよいと思う。

萬代橋について調べてみれば、あちこちのホームページに情報が載っている。今年初代萬代橋が架けられて百三十年を迎え、新潟日報などでも特集が組まれておりそれを見るだけでも十分価値がある。

私ごときが語ることではないとは思うが、万代橋の歴史を知らなかったものとして同じ人もいるのではないかと思い整理してみた。

現在の橋は三代目であり今年八十七歳を迎え、来年はいよいよ米寿である。国の重要文化財として指定されてから十二年が経つ。橋として重要文化財に指定されたのは、日本橋に続いて二番目であるが、現在の日本橋は高速道路の下あり、景観が良いとはお世辞にもいえない。

それに対して萬代橋は、花崗岩に飾られた重厚な体を大河信濃川に横たえ、新潟のシンボルとしてふさわしい景観を保っている。

そもそも初代の橋は私有の橋であり、名を「萬代橋」読みは思いを込めて「よろずよばし」とした。しかし、市民から橋は「ばんだいばし」と呼ばれ架けられて数年後の県議会でも「はんだいきょう」と呼ばれるなど、本来の「よろずよばし」の呼び名は忘れ去られている。

漢字で書くと今は「萬代橋」であるが戦後GHQの政策の影響もあり、その後「万代橋」と書かれてきた。平成十六年重要文化財の指定を受けるのをきっかけとして、もともとの「萬代橋」に名称を戻している。

今、毎年萬代橋誕生祭が行われ、今年十四回目の誕生祭が開催された。誕生祭では市民によるイベントが開催されるが、そう多くの人が集まるという印象はないが、誕生祭に行くと屋形船に乗れるので乗ってい見るといい。萬代橋を下から眺めることができる。
今現在、信濃川下流域にはいくつかの橋が架かっている。その中に「八千代橋」、「千歳大橋」があるが、いずれも万を超えることはなく「萬代橋」に敬意を払っているのか、萬代橋を超える橋は存在しないのだ。


■明治十九年(開通)
信濃川に架かる県内の初めての橋は長岡の「長生橋」である。それまではどこも渡し船による信濃川の渡河が一般的であり、川幅も現在より広いところが多かった。長生橋付近でも橋ができるまでは、「草生津の渡し」により川を渡っていた。それでは不便と長生橋が架けられた。初代長生橋は中州を利用した橋で、中州までと中州から対岸までの二橋構成で信濃川に橋を架けた。完成は明治九年であり、初代の橋は明治天皇北越巡行の際には神輿に乗って明治天皇が渡ったとされている。長生橋の命名は長岡の「長」と草生津の渡しの「生」から来ているという説「長生き」から来ているという説があるが、定説はない。ちなみに、戊辰戦争の際、長岡藩を責める新政府軍は増水した信濃川を草生津の渡しから強行渡河し、中島に上陸して奇襲攻撃により長岡城を落城させた。

長生橋架橋に遅れること十年、信濃川下流初の萬代橋が完成した。当時、信濃川は現在の流作場付近まであり、川幅は七百メートル以上。川を挟んだ新潟町と沼垂町の往来は渡し船を使って一時間ほど要し、天候の悪い日は渡れないなど不便を強いられていた。それを解消しようと、複数の架橋申請が行われていたが、信濃川の整備計画の作成が先であるとの考えの下、申請は却下されていた。やがて信濃川整備計画が整い、明治十七年申請が許可された。許可を受けたのは、当時新潟日日新聞(後に幾多の変遷を経て新潟日報)の社長内山信太郎であり、建設資金提供者は当時第四国立銀行第二代頭取の八木朋直である。

初代の萬代橋は長さ七八二メートル、幅7.3メートルの木橋であり、明治十九年二月に着工しその年の十一月に完成した。橋の長さは当時国内最長であり、建設費用は当初予定を大幅に上回り約三万三千円となった。十年前に建設された長生橋が一万千円ちょっとで、当時の大工の日当が十六銭、米の相場は一俵一円五十銭であるから相当な費用がかかった。

竣工式は十一月四日に行われ、市民二万人が集まり、市内旅館もにぎわったといわれている。渡り初めには古町芸者もわたり、花火が打ち上げられるなど盛大なものであった。
初代萬代橋は内山信太郎の私有の橋であり、開通当初三十日間は無料で通行可能であったが、その後は人ひとり一銭(当初予定一銭五厘)の橋銭が必要であり、当時の渡し船の代金が一銭五厘であったことから、自分の足で渡ると一銭で船に乗りじっとしているだけで渡れる渡し船のほうがいいなどという者もいて利用者はなかなか増えなかった。そういった理由もあり、内山は八木に橋の権利を譲ってしまった。

【「内山信太郎」は戊辰戦争時新政府軍に付いて戦い、戦後は県に任官し最後は警部で辞めて新聞社社長となっている。ちなみに、当時の警部という階級は、署長級(小規模署は警部補署長)であり、図書館で新潟県警察史に同名の記載がないか確認してみたがその存在は確認できなかった。】

【「八木朋直」は旧米沢藩士。十九歳で関流和算の免許皆伝。戊辰戦争時は米沢藩会計方として従事し、戦後は三十歳で県会計課長となる。その後第四国立銀行第二代頭取となり、明治三十八年五十八歳で新潟市長に就任。現在(三代目)の萬代橋の完成目前にして昭和四年に没す。萬代橋を語るときに欠かせない人物。ちなみに第四国立銀行は明治五年に制定された国立銀行条例に基づき設立されたナンバー銀行で、兌換紙幣を発行する株式会社であり、商号をそのまま使っている唯一現存する最古の銀行である。調べると面白いので調べてみてほしい。第四ホールには金融資料館もあるので是非一度訪れるとよい。】

■明治三十三年(無料化)
明治三十年北越鉄道の直江津からの終着駅として「沼垂駅」が開通した。当初対岸の新潟市は、信濃川を渡り新潟市まで鉄道を引くよう求めたが、信濃川の川幅が広く、川に鉄道を渡すことはできなかった。代わりに萬代橋たもとに近い流作場に新潟駅を設けてそこを終着駅とすることで折り合いをつけた。

しかし、北越鉄道は地代が高いなどを理由に沼垂駅を終着駅として開通させることにした。これに反発した新潟市民は開通五日前の明治三十年十一月十一日に新栗ノ木川鉄橋、沼垂の機関庫、それに貨物庫に爆弾を仕掛け開通を妨害しようとした。それを仕掛けた活動家が後の新潟市長「桜井市作」らであった。幸い被害は軽く、予定より四日遅れの十一月二十日に沼垂駅までの鉄道は開通した。

新潟市民の思いは成し遂げられなかったものの沼垂駅の開通により、これまでの水運による荷物の運搬から陸路による運搬が主流になる中、萬代橋の重要性が増した。しかし、個人の所有の橋では木橋の修復費用の負担が大きく市民からは行政が橋を管理するべきとの意見が持ち上がり、明治三十三年、県が萬代橋を約一万六千円で買い取り、同時に通行料は無料化された。開通から十四年が経っていた。

新潟駅設置についての新潟市民による鉄道誘致活動は続き明治三十七年、現在の東映ホテル付近に新潟駅が開通した。この当時は沼垂駅を経由して新潟駅に到着するため大きく迂回して新潟駅に到着する経路となっている。いずれにしても、新潟駅設置により一層萬代橋の交通量は増していった。

【「桜井市作」は第八代新潟市長。任期は大正5年十二月から大正八年一月まで。明治三十年に沼垂駅を爆破し、実刑判決を受けて収監された。桜井市作は、大正七年十二月「積善組合事件」での業務上横領の罪により起訴され、新潟市長在任中の大正八年一月六日、新潟監獄に再度収監されている。】

■明治四十二年(二代目)
明治四十年二月、沼垂町で大火が発生した。その際、新潟市から蒸気ポンプ車が萬代橋を通って出動した。沼垂町の人々はその放水能力に驚いたという。それをきっかけとして、江戸時代から続く新潟と沼垂の確執は小さくなり急激に歩み寄ることとなる。

その翌年の明治四十一年三月古町の芸妓置屋「若狭屋」を火元とする大火が起きた。(その年は九月にも大火があり、三月の大火は「若狭屋火事」と呼ばれている)
大火は萬代橋を渡って逃げようとする市民の荷物に飛び火し萬代橋もこれにより半分以上が消失した。

その際には、沼垂町からの応援もあったといわれているが、橋の消失により帰ることができなかったという。

この時期の初代萬代橋は築二十年を超えており、木橋のため建て替えが必要な時期に来ていたが、大火の発生による焼失でその時期が一層早まったことになる。

萬代橋の重要性は増しており県は四か月後に仮橋を設置した。仮橋は基礎杭をそのまま利用したつり橋であったが、強度がないため制限が設けらられていた。

二代目の萬代橋の工事は急ピッチで行われ、初代の基礎杭をそのまま使ったため、四十二年十二月に予定より早く完成した。幅は約七〇センチ広くしたもののこの橋も木橋であることに変わりはない。

新潟市と沼垂町は大正三年に合併しており、今年で合併後百二年となっている。
新潟市には水道が引かれていたが、沼垂町側には水道はなく、合併して三年以内に沼垂地区への水道敷設を約束していたものの、財政難で進んでいなかった。しかし、大正十年から大正十一年にかけて腸チフスが流行し、急きょ二代目の萬代橋に鉄管を渡して大正十二年に給水を開始した。防火用などには使えない共用栓ではあったが、それでも衛生面の確保により伝染病はほとんどなくなった。

このころの萬代橋は、自動車の通行量も増加し、赤バスも通るようになり、橋の損傷も多く修理を余儀なくされている。

■昭和四年(永久橋)
越後平野は古代は海の中にあり、信濃川、阿賀野川の両大河が運んできた土砂により形成された沖積平野である。このため、勾配は緩やかでいったん洪水が発生するとなかなか水が引かず、低湿地帯が多い。

享保年間(1716〜1735)には信濃川分水路の開削を求める申請を江戸幕府に行ったが、許可が下りず、越後平野はその後も洪水に悩まされた。明治二年にはようやく工事が認められたものの技術的問題や下流域への水量が減り新潟港が維持できなくなることを懸念した新潟町民の反対などにより、工事は中断されていた。

そんな中、今からちょうど百二十年前の明治二十九年七月、西蒲原郡横田村(現燕市)において「横田切れ」といわれる空前の洪水により海岸沿いを砂丘に囲まれた越後平野は新潟市にまであふれた水が達し、分水路建設工事の声は高まり、工事再開に至った。東洋一の大工事といわれる分水路建設工事は大正十一年に通水した。

このため、信濃川下流域の水量は大幅に減り、新潟市内の信濃川川幅は、三分の一程度まで狭めることが可能とされ、これに伴い老朽化し、自動車交通の増加により通過の度に音を出すことから「バッタン橋」と揶揄された二代目萬代橋も架け替えられることとなった。

川の埋め立ては今の流作場五差路付近から万代シティのあたりまでで万代シティがもともと川だったことはみんな知っているが、対岸のホテルオークラ側も規模は小さいものの埋め立てられていることを認識していない方もおられるのでないかと思う。白山神社周辺も埋め立てられ、陸上競技場、庭球場、県民会館などができている。現在の県庁も当時埋め立てられた土地らしい。ちなみに、この埋め立てによって、信濃川の中州であった万代島も陸続きになった。

埋め立てにより狭くなった川に三代目の萬代橋が架けられることとなったが、費用はなるべく安く、丈夫で、下を舟が通れるような橋をなどという条件の下、鉄筋コンクリートの六連アーチの橋を建設することとなった。設計者は若干二十四歳の福田武雄。橋は中央部分が少し高くなっており、六連のアーチも中央が大きく、端に向かってアーチが小さくなっている。中央付近のアーチを大きくしたのは、景観を良くするためと舟が橋の下を通りやすくするためである。

工事の総指揮を執ったのが正子重三。橋脚の建設は当時最先端の「空気潜函工法」で空気の圧力により周囲の水が浸入しないようにその中で作業をするという工法であり、空気の圧力で危険な作業という噂も出て、安全性をPRするため新聞記者を招いて体験させたという。

橋脚の基礎工事で出た砂は良質のもので、コンクリートの材料として使われ、そのおかげで材料費の節約が可能となり、浮いた資金で橋の側面は花崗岩による化粧張りを行い、より一層景観がよくなった。

当初、萬代橋を路面電車が通る計画があり、中央に軌道を確保するため、橋の幅員は二十二メートルと当時としては破格の広さとなった。結果として電車は資金難から実現しなかったが、しばらくは橋の中央は砂利敷きであった。電車は通らなかったものの、この計画がなければ、萬代橋のこの幅は必要なく、こんなに長く使えなかっただろうなと思うと感慨深いものがある。

二代目の萬代橋にも水道が通っていたが、三代目の萬代橋も二代目と同様水道管が敷設された。歩道に埋設された水道管は二代目のそれとは比較にならないもので、沼垂地区の給水に大きく貢献した。歩道にはこのほか電気、ガス管などのライフラインが敷設されている。

昭和二年七月に着工した工事は、二年一か月を経た昭和四年八月二十三日に三〇九メートルの橋を完成させ竣工式を迎えることとなる。

竣工式では関係者のほか、歴代の橋と同じように古町芸妓も渡ったという。思い出したことであるが、新潟で治療を受けていた新発田の軍人がどうしても新発田に戻るいい、竣工式前日の夜バスで萬代橋を渡ったという話がある。その際に軍人は、萬代橋通行時に揺れのない橋に感動し、この道が新発田まで続けばよいのにと漏らしたとのことである。

ちなみに、上流三十メートルのところにあった二代目の萬代橋は、しばらくの間、取り壊されずに残り、取り付け道路が新潟駅に行きやすかったためそちらを通る市民も多かったという。

■昭和二十三年(事件)
新潟まつりは今でこそ八月の初旬に行われているが、昭和五十八年までは八月二十二日、二十三日に行われていた。その新潟まつりの前身の「川開き」が第二次世界大戦後の昭和二十一年に再開された。翌年の昭和二十三年八月二十三日には、萬代橋上で花火見物をしていた観衆約百人が欄干を突き抜け川に転落して死者十一名を出すという痛ましい事件が起きた。これを萬代橋事件という。戦中金属回収令により萬代橋の街灯、橋名板、欄干の金属柵が供出され、街灯はみすぼらしい木に変えられ、策も木製のものに付け替えられており、一説には付け替えられた木製の柵により欄干の強度が下がったことが要因で事故が起こったとされている。しかし、ものの本によれば、欄干一平米あたりの強度は七十キログラムで予期できない事故であり、責任者は事件として起訴されることはなかった。その後、欄干には鉄筋が埋め込まれ強度が増されている。

現在祭り警備では、橋の上で立ち止まることを禁止しているが、これも萬代橋事件以降そうなったとの説が一般的だ。しかし、その前から立ち止まらないよう指導していたという話も聞く。

余談であるが、一時期戦後の引揚者が住むところがなく、萬代橋のたもと付近では、多くの人がバラックのような建物を建て住んでいた。

■昭和三十九年(地震)
昭和三十九年六月粟島沖を震源とするマグニチュード七・五の地震が発生し、この時から使われるようになった言葉、液状化現象など、新潟市内は甚大な被害を受けた。昭和大橋はそれまでの木造の橋から架け替えられひと月前に完成したばかりであったが、橋げたが落ち、他の橋も大きな被害を受けた。一方萬代橋は地震に耐えた。取り付け部分は地盤の沈下などにより崩れたものの応急措置により五日後には車両の通行を再開した。ほかに被害の少なかった橋は帝石橋のみであり、萬代橋と帝石橋を一方向で周遊する経路をとって物資輸送の混乱を防いだ。

当時の萬代橋取り付け部分には貨物鉄道が引かれていて万代島まで通じていたが、地震後には廃線となった。取り付け部分の改修により萬代橋は二メートル短くなり、三〇六.九メートルとなった。

■平成十六年(重要文化財)
平成十六年七月六日市民の願いがかない、萬代橋は国の重要文化財として指定された。橋としては日本橋に続いて二つ目となる。指定されたのは取り付け部分を除く六連アーチなど当初のまま残っている部分だ。取り付け部分は新潟地震の際にキャラメル構造に改造され、当時のアーチ状の姿は失っていた。

重要文化財指定を機に橋の名前を戦後使ってきた「万代橋」から本来の名前「萬代橋」に戻した。ただし、周辺の地名などは万代を使っている。

同じ年、萬代橋の復元プロジェクトができ、七五歳を迎えた萬代橋は生まれたときの姿に修復された。照明灯はその間幾度も改修されてきたが、当初のとおりの姿に戻り、電車を通すためのリングも照明灯に復元された。また、橋側灯も復元されたが、その費用は市民の募金で賄われた。
重要文化財の指定と七十五歳の誕生日を祝い、この年から八月二十頃に萬代橋誕生祭が行われるようになり、毎年多くのイベントが行われている。

イベントでは屋形船に乗るイベントもあり、萬代橋をくぐり、ファインセラミックの柳都大橋、昭和大橋まで回ってくる。萬代橋は手入れが行き届いていることが見て取れる。
面白いのが昭和大橋の橋脚である。昭和大橋は新潟地震の際に橋げたが落ち、橋げたは修復されたものの、橋脚は直されておらず、何本かが曲がったままになっている。舟に乗って近くで見るとそれがよくわかる。ぜひ一度乗ってみるとよい。
ちなみに、地震当時は橋脚は1列の柱で支えられていたが、現在は2列の鋼管に補強されている。


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