▲いまも水上交通が盛んな旧江戸川(江戸川区東葛西)
「葛西菜」から「小松菜」への名称変更について、まことしやかに囁かれる説があります。それは、当時の「葛西」という名につきまとっていた、あまりよろしくないイメージに由来します―
最近では高度な循環型(リサイクル)社会であったことが知られる江戸。一説に人口百万を超えていたともいわれる都市から排出されるヒトの排泄物は、近郊の農家で下肥として使われていました。
当初の下肥のやり取りは、直に農家が汲み取りにきて、その謝礼として盆暮れに収穫した野菜を届けるといった、至極シンプルな交換形態だったそうです。それがのちに専門の業者が現れ、金銭でやり取りされるようになりました。主たる運搬は水運によるもので、江戸川や古利根・中川、そして荒川には、肥船と呼ばれる伝馬船が数多く往来していたのだそうです。
これら肥船の多くが葛西領のものだったことから(特に江戸城本丸の下肥の汲み取りを請け負っていた葛西権四郎という人物が知られています)、やがて「葛西船」は肥船の代名詞になりました。寛保2年(1742年)の落首に、
葛西にない物は畳しいた家 たまるものは江戸の雪隠
といったものがあるほどですから、当時の人びとが抱いていた「葛西」のイメージの想像がつきます。(いまじゃウォーターフロントとして江戸川区内で最も人気の高い地域ですけどね)
―そんなわけで。
「小松菜」命名の理由の背景に、「葛西船」の存在を指摘する向きがあるという話でした。江戸の頃にも凄腕の広告マンがいたのかもしれないと思うと、それはそれで面白い話ではないでしょうか。ブランディングとネーミングって大切なんですよ…って、あれ?何の話でしたっけ。(笑)

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