魚は平気で殺せる(もしくは殺すところを見ていられる)くせに、動物はダメという日本人は多い。可哀そうなら食べなきゃいいのに、肉になっていれば食べられる?欺瞞臭いぞ。わしゃDonna Donnaを歌いながらウィナーシュニツェル(オーストリー名物、子牛のカツレツ)を食える。・・って自慢にゃならんか。
もっとも可愛いから、知能が高いから殺すなには別の欺瞞を感じてしまう。種類によっては増加傾向にあると言われているクジラの話だ。ぼーずの考えは単純。種の存在が危うい動物の捕獲は禁止すべきで、そういった問題がなければ認めるべきと考える。不幸なことにクジラの問題は科学的、論理的思考の外で語られ過ぎだと思う。
もしパンダが世界中にゴロゴロいて、裏の畑でキャベツを盗み食いしていたら間違いなく殺されている。また肉が美味かったら食われていると思う。可愛いから殺すなと何人が言うだろう。増してや、我々はクジラの骨や皮まで食べる。過去におばはんのスカートを膨らますためにクジラを殺しまくった人達とは違うのだ。
今は知らないが、絶滅の危機にあるベルーガ(白イルカ)の猟は地元の消費に限り認められていた。彼らはアメリカ人だ、そう米国の友人に言うと『エスキモー(これ自体現代では差別用語なのだが)はアメリカ人じゃない』と反論されたことがある。ぼーずが言いたいのはアメリカ政府がベルーガ猟を認めていたということだ。
マイノリティも含めてのアメリカ合衆国だろうというぼーずの言い分はWASP崩れである彼には通じなかった。『知能が高いから殺すな』は『知能が低ければ殺しても構わない』につながるだろうに。実際そういった偏見で先住民を抹殺してきた国ほどクジラには優しい気がするのはぼーずの偏見か?
昭和30年代、大和煮やカツだったと思うが給食の肉はクジラと決まっていた。今考えても大和煮とコッペパンはミスマッチだと思うが、照り焼きバーガーを考えれば不思議ではないのかなぁ。とはいえ日本の食文化だから口を出すなという主張も気をつけた方がいいと思う。
ぼーずは犬を食べようとは思わないが、食べる人たちを非難する気はない。但し、うちの犬に手出しをしたら、たとえそれが野犬捕獲員だろうがただではおかないと思っていた。クジラを観光資源にしている国もある。ぼーず達の世代でもクジラを常食してはいない今、クジラ漁は近海で必要とされる地域だけにとどめた方がいいと思うのだ。

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