2007/9/27

インランド・エンパイア  映画

朝八時半、J−waveに出演。続いてSwitch取材。本屋めぐりをしているうちにほとんど気持ちが空白になり、思いきって恵比寿で『インランド・エンパイア』。

他人の気持ちがわかる、と言い募る輩をいまさら糾弾しようとは思わないので、ただ、ふうん、エスパーみたいだね、とからかってやるに留める。一方、他人の気持ちなんかわかるわけがない、と言い募ろうという反骨精神もこれといってなく、内心でそう呟くに留める。こういったいささか窮屈な場所に自分を置くのも疲れることなので、やがてひとはあることをはじめる。だだもれである。他人の気持ちがわからないのだから自分の気持ちも他人にわかるわけがない、だいたい気持ちってなんだよ、いいんだよ、気持ちなんかどうだって。というわけで「有閑マダムの妄想」という設定を敷いてその上を気ままにドライヴすることだってやろうと思えばできる。こういうドライヴを最初に発明したのはルイス・ブニュエルかもしれず、だからローラ・ダーンの手の甲に「LB」と刺青があるのだとか、なんたってこれは『昼顔』の遥かな翻案だとか、「47」だってドアにくっついてるんだから当然逆さにするしさらに鏡に映せば「Lb」って見えやしないかとか、あれこれ考えるのも、このドライヴを快適に過すための方便のひとつだろう。デパルマの『ブラック・ダリア』にも出てきた「笑う男」とかいう現代絵画の模写みたいなのも出てくるから、ブニュエル祖形説はさらに強固になっていく。……おっといけない、それを考えるとかなりシュトロハイム的なところ(モロ『クイーン・ケリー』を模倣した蝋燭と祈りのカットがあった)もあるのであり、デパルマにはまだ距離への古典的な信頼があるからなんとなく説得された気にもなれるが、リンチにあるのは接触したら映画は終わり、という強迫観念のみなので、それこそ「真っ暗な映画館にいるかのような」距離の失調にギリギリまで(つまりどアップ)付き合わされるのもしかたない、と諦めよう。もしかしたら北野武はこの二人の中間にいるのかもしれないが、それがいいことかどうかは知らない。そういえば北野さんも『サンセット大通り』症候群っぽいし、なんかなぁ。あと、名前だけ入れ替えたらあとは別人でも二人一役でも一人二役でも何でもあり、というのも北野さんと共通してるかも。人形はオリジナルだけど……てこともないかぁ(大和屋がw)。これで自分とか他人とか気持ちとかまったく特定できなくなるだろう、ということですかね?
けどデジカム使ってるのにあくまで「映画はサイレント」と強行に画面と音響を分離し続けるリンチはある意味立派と感心もするけれどそこで苛立つ人も相当多いはずで、いかんせんそこでの音響のセンスがJLGやストローブ=ユイレ、あるいはソクーロフなんかとも比較にならないくらいダサいのは誰の耳にも明らかだな。あと、ダンスシーンのもうどうにもならない俯瞰のダサさ、もちろん狙いでしょうけど、ああいうのではもはや脱力さえしない。そもそもブニュエルは最後までだだもれじゃなかったし。……あ、『銀河』とか『自由の幻想』とかはもうほとんどそうだったけど。。。
それでも三時間、それほど退屈しなかったのも今日は気持ちがなかったせいだろうなあ。なんか気持ちがある日に見るとたしかに超むかついてたかも……w

ただあれだね、これだけビッチもガンも出てくるのに『デス・プルーフ』に似ても似つかない、というのはやっぱリンチが人間としてQTよりずっとオトナってことですかね? でもオトナの映画が良いとはかぎらないのがこの世の難しいところで。。。
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