2007/10/30

映画芸術421号  議論

「特殊な人たちが出てくる映画っていやなんだよ」と編集長が言っている。私も同感である。特殊な人たちしかネタにできない映画は痩せ細る。特殊でない人たちによる価値紊乱こそが映画だと思ってきた。特殊な人たちはまやかしめいた普遍性を信じることを前提にのみ浮上するが、特殊でない人たちは一般性のなかでの不意撃ちを発揮する。ペキンパー、アルトマン、神代、みな例外なくそうだったはずだ。しかし今号には特殊な人たちばかりが出てくる気がしてならない。貴重な話もたくさんあるが、それらの大抵は先の都知事選において石原を駆逐できなかった真面目さとそう変わらなく見える。例によって編集長の後記を真っ先に読んだせいだろうか。都知事に認知された小説家に認知されなかった、と悔しがっている。そんなもの、わかんねえだろうな、ざまあみやがれ、市民権なんかいらねえや、と「シナリオ年鑑」に載らないことをむしろ矜持とすべきではないか。見ていないので何とも言えないが、本誌を読むといまの日本映画には「特殊でないふりをした特殊な人たち」にのみキャメラが向けられ、その当たり障りのなさのなかで価値を温存しつつ萎縮するばかりな気がしてならない。映画は遅れて来る。橋本〜森政権あたりに端を発し、小泉政権が肥大させた歪み(膿?)が次々に問題化している現在、神奈川教委が君が代不起立教諭の名簿を破棄することになった、というちょっとだけ明るい話題もネットで知った。だが本当に明るいかどうか、予断を許さない程度にはわれわれも用心深くはなっている。遅れてくる映画に価値を紊乱できるだろうか。ある映画の手のカットが『ラルジャン』のようだ、と書いている人もいたが、その書き方はスポイルになりはしないか。『ラルジャン』は全篇『ラルジャン』のようなカットで出来ていることを忘れてはいけない。ソクブン師匠の映画は風俗に遅れることを決して恐れず、結局いまも古びることなく価値を紊乱し続けている。
ソクブン師匠は「キミ、映画は不意撃ちだよ」と私に教えてくれた。
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